傍に立つこと
キリスト者として日本に生きる

「鰯の頭も信心から」ということわざがあります。その意味は、「 鰯の頭のようにつまらないものでも、それを信仰する人には尊く思われるという ことから、信仰心は不思議な力を持つものだということ」のようです。これは、ことわざですが、イエス様は、福音書の中で「あなたがたによく言っておく。もし、あなた方に一粒の芥子種ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここからあそこへ移れ』と言えば、山は移る。あなた方にできないことは何もない」。(マタイ18・20)と言われています。

  このみことばを聞いて、「そんなことは、私たちには不可能だ。イエス様が言われたのはたとえ話で、実際にはできっこない。」と 頭から否定する人が多いのではないでしょうか。 しかし、私はそうは思いません。確かに、文字通り「山が移動する」ということ無理かも知れません。 しかし、イエス様は、このみことばで言われていることは、「辛子種ほどの信仰でも持ち続けて、それが成就することを信じ続けることが大切である。」と言われているのではないでしょうか。
 私たちの生活を振り返ってみましょう。 例えば、インターネットですが、インターネットがなかったときの伝達手段は、手紙や電話、FAXなどでした。それが、インターネットで瞬時に相手にメーッセージが届き、コミュニケーションがスムーズに伝わります。今でしたら、当たり前ですが、最初にこのようなシステムを考えた人は、素晴らしいと思います。科学や技術の進歩で私たちの暮らしは、ますます楽になってきました。しかし、一昔前では、このような生活ができるとは考えられません。今のようなネットの「ネ」の字もない時に、「パソコンを通して、瞬時に世界の情報を知ることができる」と言う人が現れたとすれば、きっと、笑いの種か、変人扱いにされたかも知れません。しかし、それを信じて研究し続けた人たちの努力で、私たちは、今こうしてインターネットを使うことができます。

   インターネットと私たちの信仰を一緒にすることではありません。しかし、私たちは、客観的に見て最初から無理と思えるものでも、思い続け、工夫し努力することで何か形になってくるという体験や経験をしたことがあるのではないでしょうか。信仰を持つ私たちは、祈りや行いをもって何かの業を行うことができることを信じています。信仰とは、私たちが神様とどれほど密な関係を持っているのかということではないでしょうか。祈りを通して、また日常の生活を通して、いかに神様と接しているか、それぞれの神体験があるかということも、信仰を深めるためには欠かせないことと思います。
  私たちは、辛子だねほどの信仰を持ち続け、祈りと黙想そして、生活のうちに信仰を育てることでますます神様の愛を感じることとでしょう。この「信仰年」を通して一人でもの多くの人が主とともに歩む信仰に満ちた歩みができますようにお祈りしていきたいものです。  <完>