傍に立つこと
キリスト者として日本に生きる

  原稿を依頼されて、あっという間に時間が過ぎた。信仰年について書くということは、教皇様がおっしゃっていることを説明することでもなく(引用はするが)あくまで、自分の日々の生活の中でどのように信仰を生きているかということを書き表すことなのだ、と思うと、なかなか筆がすすまない。自分の生きている信仰生活に対して自信がないからである。しかし、そんな自分にも、どのように御父が、イエスが共にいて下さるかを思いめぐらしてみると、いつも 「ともにいて下さい」と言って祈るものの、「共にいて下さってありがとうございます」と感謝することがなんとすくないことか! そして御父がそんな私をどんなに助けて下さっていることか!!

  信仰、という言葉を聞いてふっと思い出した聖書の一節がある。「私の兄弟たち、自分は信仰を持っているというものがいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。」(ヤコブ2:14)。とても新鮮な響きで私の中にストンと落ちた一節。熱心に祈るだけでは足りず、行動が伴うことが大事だ、とヤコブは至極あたりまえのことを伝えてくれている。しかし、それが新鮮だったのは、私は神を信じていると言いながら、具体的に次々に目の前に起きてくるチャレンジにおびえ、時には体だけはそこにあるけれど、心では延々と文句を言い、しっぽを巻いて逃げ出してやれやれと思う。。。 そんなことを繰り返してきた、わが身をも目の前に置かれたからである。信仰と、現実が乖離してしまっている自分の生活では意味がない、と気が付いた瞬間でもあった。そうして改めて、信仰と現実の生活は統合される必要があることに意識を向けるようになった。聖書の中でも、信仰というのは苦しい状況にあるときにこそ現れ出ている。病気や、苦しみ、差別、当時の社会的常識をはるかに超える出来事を生きるときに、その人の中にある信仰の輝きが現れ出てくる。

  同じように、理不尽なことに直面した時に「イエス様、働いてください」とお願いする。そして、その理不尽さから逃げることなく、きちんと向き合う時間を取る。あるいは自分が向き合うことができずとも、ほかの人がフォローしてくれることもあるだろう。そういう時に心をこめて「ありがとう」と伝えること。信仰とは、自分と神との関係にとどまるのではなく、自分と、ほかの人たちとそして社会と、より開いてかかわっていくことができるための、神様からのお恵みである。「イエスは生ける神の子だ」と力強く宣言し、福音を述べ伝えていった弟子たちが頂いた恵みを、私たちも受け継いでいるのである。<完>