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  教会の本性は「宣教」である。(宣教2)「知の塩、世の光」(マタイ5.13)である司祭たちは、人々を「道・真理・命」(ヨハネ14.6)であるキリストに導き、出会わせる大きな使命がある。人は真理への憧れを持つ。それは自分の生き方に光と希望、力を与えてくれるからである。従ってキリストの司祭たちが真理に向かい、真理に出会い、真理に生きることは至極当然である。そしてそれは神の知恵に生きるように招かれる司祭たちの本性でもある。

  司祭養成における知的養成の重要性について『現代司祭養成』51は次のように述べている。「現代は宗教に対する中立主義、客観的で普遍的な真理に至る理性能力に対する不信感、科学技術によりもたらされた問題や疑問の特徴づけられている。このような状況にあって司祭たちは、変わることのないキリストの福音を告げ知らせ得るように、また人間の理性の要求に対して福音を信じることができるように、質の高い知的養成が強く求められている。」また多元主義の現実の中で、適切な批判的識別能力を身にづけ得るようにも求めている。すなわち現代の人々が直面している人間性を歪め、あるいは崩壊させるかもしれない諸問題を知り、それらを検証し、それらに教会的立場から適切に答え得るために、深い知的探求がなされなければならない。
  また教会は司祭になろうとしている神学生たちが、現代の多様な価値観の中で、人々が道を迷うことなく真理に至り、真の幸せを得ることが出来るよう導けるものになることを求めている。そのためには司祭を目指す人たちは社会学、心理学、経済学、政治学、社会情報学、実証科学、歴史学、文学など「人間の諸科学」についても基本的知識を持つことは至極当然である。ただこれらの科目を神学院で学ぶことは時間的に無理があるから、神学院に入学する前にこれら知識を学んでいなければならない。

  また教会は人間を神との関わりにおいて考察する。それゆえ神学院でなさる知的養成はキリスト教的視点にたった知的探求となる。唯一の普遍的真理への探求を行う哲学や、より専門的な神学、聖書、典礼、教父、教会史などがある。特に「真の神学は信仰から生まれるとともに、信仰に導くことを目指す」ものであるから、人間の知性の力だけによって、すなわち知的好奇心を満たすためにのみなされるのではない。信仰に基づいた、そして具体的な生きた信仰の支えとなることを目指し知的探求がなされるのである。

  神学院での知的養成は神学や聖書の知識を獲得するだけではない。司祭についての理解を深め、その生き方に影響し、その任務を遂行させるものである。つまり神学院での知的学びは、人間性の形成や霊的養成、そして司牧的養成などとも、互に深く関連するのである。これに関して『現代の司祭養成』は次のように述べられている。「神学院における知的養成と祈りの生活を中心にした霊的養成とは、相互に深く補い合うものであり、知的探求心を弱めたり、祈りの霊的香りを減じたりするものではない。」(P.D.V53)

  また人が神とは関係なく、自分の力だけで愛の実行をしても、長続きがしなかったり、自己中心の愛の実践に陥ることもある。実際、人は神からの力なしに他者に奉仕し、他人を愛していくことはできる。たとえば「人助けは人間として当然だから行うべきだ」という人もいるし、自分の名誉を得るため、他人からの称賛され良い評価を受けるため、自分の見栄のために愛の実践に励む人もいる。また好奇心を満たしたり、状況を分析し、種々の知識を獲得するため、現場に赴き人助けをする人もいる。さらには「今親切にしておけば、いつかは自分に返ってくる」の思いや、「自分がしてもらいたいことを人にする」という「お互いさま」の感覚で人に奉仕することもある。このように神とは関係なく、人を愛し人に奉仕することも出来るのである。

  しかしキリスト者の愛は、自分の益のために、自分の力だけでするものではない。キリスト者の愛は、「敵を愛する」(マタイ5.44)愛である。自分が傷んででも、相手を大切にする愛である。それは理屈を超えて、ただ「~にも関わらず神は私を愛して下さる」からである。神はどんなことがあっても、私を愛して下さるから、私は無条件で相手を愛するのである。これがキリスト者の愛の源泉である。

  人が隣人を、しかも敵を愛せるものとなるためには、その人自身が永遠の相の中で神に愛され、神に肯定されていることを自覚する必要がある。自分が神に愛され肯定されていることが分かれば「自分を愛し」「自分を肯定する」ことができる。その時その人の愛はそとに広がっていくのである。

  人は何故、神を信じ、神に祈り、神からの恵みと力を願うのだろうか。この社会の中でよりよく生きるためである。この社会は所有と競争で動いている。そこでは否定の力が大いに働く。人はその中に投げ込まれ、油断すればあえぎながら生活することを余儀なくされる。こういう中で普遍的かつ恒常的に自己を肯定する力は超越的な憐れみ深い存在者にのみ汲むことができる。また人はこの社会では欲によって生きるのであるから、そこで悪、不正義が蔓延することは避けられない。この悪、不正義の力から自分たちを守り、人間の本来のあり方を知るためには、やはり愛と正義そのものであり普遍的善である神に頼むしかない。こういう訳で人はこの世をより善く、正しく、自己充足を目指して生きるために神への信仰を持つのである。

  神学院での養成の中でも、霊的養成は重要な位置にある。それは霊的養成が司祭養成を完成するからである。(『現代の司祭養成』45参照)この養成の目的は、司祭が自分の姿を通して映し出し、キリストをこの世界に現存させ得るものとなるためのものであるから、キリストとの深い一致を具体化する事によって進められる。

  キリストとその教えを知るために、聖書や教父の教え、教会の教えを学び、キリストの教えに生きた聖人たちの模範を学ぶ必要がある。神との具体的交わりに生きるために、聖書を黙想し、祈りを実践する。また諸秘跡、特にミサ聖祭を通してキリストのあがないと愛の記念を、今そこで秘跡的に体験し、神の恵みを常に実感することも必要である。また神の恵み、働きに敏感になるために内省し、自分が神に生かされていることを何度も繰り返し見つめ、自分を生かしている神の恵みを霊的に観じ味わうことは不可欠である。神の恵みへの敏感さを保つために、ゆるしの秘跡にたびたび与り心を清め、また自分の歩みが相応しいものであるように、自分の思いや歩みを霊的同伴司祭に打ち明け、同伴司祭の示唆に耳を傾け従う謙虚さも必要である。

  霊的養成は単なる理想ではなく実践である。霊的生活が深まっているかどうかは、その人の言葉、姿、あり方に端的に表れる。従って、「全ての人に」対応できる司祭になるためには、霊的養成を意識し、実践する必要がある。人は時間と空間、状況の中で生きている。養成においても時間と空間、状況を利用する必要がある。すなわち人は時間と空間と状況の中で養成されるのである。神との関わりの時間を持つことである。他の人と共に行う決められた祈りの時間があり、また個人的な祈りの時間がある。人の霊性は繰り返しの祈りの中で深められていく。

  また場所も大切である。人は種々の場を大切にする。食する場、寝る場、仕事の場、遊ぶ場など。同じように自分を見つめ神と対話する場-特に聖堂を大切にすることである。人は場によって自己形成がなされるのである。

  人はまた状況、状態の中に生きる。状況、状態の中で自分を保つために、臨機応変に種々のことに対する力が必要である。 その際、いつも自分が大切にしているものに戻り、堅固な存在基盤の上に立つことが必要である。種々の状況、状態がその人の霊性の深さを試すことになる。

  人は形の中で形成される。霊的次元においても形は重要である。形が心の内面を作ることなる。例えば祈りの形がなければ、祈りは流れ、祈りの意味がわからなくなる。祈りの形を整えると、祈りが全身表現され、祈りの味わいが生まれる。そして形はその意味を問うことになる。意味を問うとき事柄は深められていく。

  霊的養成を深める上で大切なことはバランスである。祈りと奉仕のバランス。 神を愛することと隣人を愛することのバランス。そのバランスは一方と他方という意味ではなく、一方から他方への連続性である。つまり神を愛せないなら、隣人への奉仕は、自己中心となり、隣人への奉仕が効果的となるためには神への愛から力を汲む必要がある。
 
  また霊性は理論的なこと、理想的なことではなく、実践的なことであり、観じ-感じられることである。霊性は自己肯定とゆとり、そして謙遜と柔和、さらには忍耐と節制、剛毅、他への愛、赦しと奉仕などの具体的な力となって現れるのである。
  霊的養成は司祭の役務を通して生涯続けていくべきものであり、その味わいと基本的方法を神学生時代に体得するのである。