TOPページ  >大山神父の「カトリック司祭の養成」 宣教・司牧的養成      
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   「全世界に行って、すべての造られたものに、福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われる」(マルコ16.15-16)キリストの弟子たちに向けてなされたこの言葉は、21世紀を生きる司祭たちにも向けられている。すなわち全ての司祭はみ言葉の宣教者となるために養成される。それゆえ神学院における人間的、霊的、知的養成のすべてが、宣教・司牧的養成に向けられるのである。(cf.『現代の司祭養成』57)

 いうまでもなく司祭は「キリストを映し出す鏡」であり、「キリストを今、ここに現存させる」良い牧者「キリストとの深い愛の交わり」を生きる存在である。(cf.『現代の司祭養成』15)

  キリストは言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2.17)確かにイエスは病んだ人、共同体から外されている罪人、相手にされない孤独の人などに深く関わり、癒しを行った。また金持ちや律法学者、大祭司などとも関わった。要するに誰とでも必要に応じて関わられた。イエスにとって救いの対象は「すべての造られたもの」であったからである。

   現代の宣教者もキリストに倣い誰とでも関わり、神のみ言葉を伝えるように求められる。誰とでも関わるという意味は、こちらから相手に近づくということだけでない。こちらに近づいて来る人を受け入れること、また相手にとって関わり易い存在であるという意味でもなる。相手の価値観、生き方、あり方、姿などを認め受け入れ、またこれらの面で彼らに違和感を感じさせないという意味でもある。司祭は常に「成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」(エフェソ4.13)ように招かれている。ここでいう「キリストの豊かさ」とは、小さい人には小さい人となり、貧しい人には貧しい人となり、病気の人には、自分を低くしてその人に添う者となり、知的な人には彼らと共に考えるものとなり、豊かな人には彼らと共に真理を、愛を考えるものになることを意味していると解することもできよう。このように司祭はキリストに倣い(誰にでも「添える者」でなければならない。使徒パウロのように「全てに対して全てとなる」(1コリント9.22)ことができれば申し分の内宣教者となりえよう。

   添うことのできる人は、相手をこの上なく大切にできる人、すなわち相手に聴く人である。「信仰は聞くことによって、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まる」(ローマ10.17)のであるが、司祭は「聴くこと」に長けた人である。神に聴き、自分に聴き、他者に聴く、と全てに長けていないと、み言葉を話すことも伝えることもできない。司祭は話す、主張するより先に、まず聴けるものであることが要求される。相手に聴くことで、相手に今必要なことや心の模様が見えてくるし、話し、伝えるべきことなどが顕わになるのである。

   司祭が宣教するのは、人々を聖化するため、すなわち人々の信仰を育てるためである。人は神の恵みを受け、その恵みによって生きるものとなるというのが教会の基本的教えである。人々が見えない神との関わりを深め、その関わりから生きる力を汲めるように、教え、導き、神の恵みを実感させ、キリスト者として自立させることが宣教である。その人自身が神との関わりの中で、自分の存在のバランスを取れるように、その人の信仰を支え導くのが宣教である。
  そのためにはまず司祭自身が祈りや、み言葉の黙想を深め、そして聖体の秘跡の執行を通して神に聴き、神からの恵みを実感する必要がある。確かに神の恵みは「見えないし」「感じない」。しかし神のみ言葉を観じ、その祈りを深めることで、自分が生かされている実感を持てるようになるし、三位一体の神の恵みが自分を包み生かしてくださっている感覚も強め得るようになる。見えることも感じることもない神の恵みが、観想を通して、次第に感じ取られるようになる。見えない神の霊に包まれている私が、回心の水(洗礼)を通して、見えるパン(聖体)へと展開し、他を愛する「愛の実践」の力を汲めるようになる。見えず感じなかった「神の恵み」が心で感じられるようになると、「あるがまま」を生きるようになる。全てを受け入れ、全てに添いながら生きるようになる。神の恵みに生かされるとき、ものごとを肯定的に、広く、深く、ダイナミックに捉えることができるようになる。

   見えないもの、感じないものから恵みを観じとり、見える形へと具体化する力を私たちは信仰と呼んでいる。この神への信仰は共同体の中で養われる。信仰は一人で祈ることで得られるようなものではない。キリスト者の信仰は初代教会の人々がキリストに対して持っていたのと同じ信仰である。その信仰は時代を経ながら、次世代に伝えられて来たものである。見えない恵みが見える形になること、感じない神の恵みが感じるものとなることが重要である。神を愛することは、自分を肯定し、隣人を具体的に愛する所まで進まなければ意味はないだろう。見えない存在との関わりが、見え感じる他者を肯定し、包み、受け入れ、愛し、その心を成長させるところまで展開しないなら、み言葉宣教は空しいものになるのではないだろうか。神の恵みを具体的に生きる共同体の中で、まずそのメンバーはお互い赦しを願い、和解し、愛し、神への信仰を次世代に感じ取らせていく。そこで感じ取られた存在を肯定し、本来性を引き出す神の恵みは、その恵みを享受したメンバーによって外へと広げられていく、これが宣教であろう。このようにみると、信仰は自分と神の関わりに留まらず、他者との関わりの中で、愛のわざとなって感覚的に具体化されていくものである。信仰は共同体の中で、信仰に生きる人たちの生き様を通して体験し教えられる。その人たちの生き様を支える根源へと導かれる中で信仰の種は蒔かれていく。人の心に蒔かれた信仰の種は、信仰を同じくする共同体の中で、自分を見つめ、知り、そして他を知り、他との関わりのあり方を通して、自分が一人で生きるのではなく、「生かされ生きる」ことに気づき感謝を覚えるに応じて芽生え成長するものである。

   宣教・司牧的養成は司祭たちが、人々の信仰を育て、キリスト者として自立さえ得るものとなるための養成である。すなわち人々が三位一体との神を知り、その神との出会いから今を生きる力を汲めるように、彼らの信仰を育て得るものとなれるように養成されるのである。 そのために司祭志願者は教会における宣教・司牧的実習が行なう。そこでは「み言葉の役務」「礼拝と聖性の役務」「牧者としての役務」(『現代の司祭養成』57)を実践し経験を深める。これらの奉仕を体験する中で、人間が直面している種々の問題を知り、種々の困苦欠乏の中にある人々と「共に歩める」ように養成される。