TOPページ  >大山神父の「カトリック司祭の養成」 >見えない神の恵みを具体的に顕わにする司祭      
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  日本の社会は高齢化が進んでいる。日本の教会を支える人たちも、例外なく高齢となっている。こういう状況で、若い人たちの中から司祭、修道者への召命を望むことは難しい。とはいえ教会が今まで伝えてきた信仰・希望・愛の教えを廃れさせてはならない。それは人間を生かす大きな力となっているからある。それゆえ教会の教えを生き、伝える司祭、修道者の養成は、今後とも重要な使命として連綿となされていくことだろう。

  そこで、ここでは、主題をカトリック司祭に絞って、その養成について考えてみたい。

●70年先の教会を考えながら

  私は司祭養成の任務を受けてから、もう30年近く経つ。時として「どのくらい先のことを考えて司祭を養成していますか」と訊かれる時がある。その質問に対して「60-70年ぐらい先の教会を思いながら、司祭を養成しています」と答える。30年を一世代とするなら。二世代先ということになろう。今養成されている神学生が叙階されて30年~40年のベテラン司祭になり、その司祭が次世代を養成し、その次世代の人がさらに次々世代の神学生を養成する所まで、今の養成が影響を与えると思っている。それゆえに今の養成は60-70年先の教会に影響を与えるものと思っている。時代と共に教会の姿は変わる。しかしその中に流れる恵みと、その教えの本質は変わることはない。

●見えない神の恵みを具体的に見えるものにする使命

  キリスト教の信仰の中では、キリストは神の子であり、マリアを通して肉をうけ、この世界に生まれた。そのキリストはみ言(ことば)でとして、私たちの間に現れた。見えない神が見える形で、時間空間の中に生きる私たちに感じられるものとして現れた。神の恵みが、神の力が見えるものとなったと考える。

  「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(ヨハネ1.14) 「この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。」(1ヨハネ1.2)

  見えない神が、感じられない神の恵みが見えるものとなり、感じられるものなる。これがイエスの受肉の神秘である。神殿に連れて来られたイエスを見たシメオンは、幼子を抱き、神をたたえて言う。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、 異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」(ルカ2.29-32) 神による救いが見えるものとなった。見えない神の秘められた計画(ローマ16.25)があらわになったのである。

  見えない神の恵みを見える形で顕わにしていく行ないが福音宣教と呼ばれるものである。それはまずキリストによってなされ、その時代、その時代を生きた人々によってなされた。そして今21世紀の初頭を行くこの時代にあって、全キリスト者がその使命を担うわけだが、特に司教とその協力者である司祭には、今の時代に、見えない神の恵みと働きを具体的にあらわにしていく使命と責任が与えられている。

  司祭のアイデンティティは今の時代に「キリストを現存させる」ことである。言い換えれば司祭は「キリストを生きた似姿」(『現代の司祭養成』12番)であり、「キリストを彷彿させる存在」(『同』15番)である。従って司祭の養成の目的は、養成を受ける人がキリストの姿に生きるものとなる程にキリストと深く一致した司祭を養成することである。