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  11月は死者の月。自然の木々も紅葉し、葉を落としながら冬支度を始めている。寒い冬を越えるために、身軽に成る必要があるのだろう。木の葉が一枚、また一枚と風にヒラヒラ舞いながら散る有様は、木の本体を守るために、自らを散らす葉の美しさと尊さを示してくれる。

  老いと死。それは生き物には不可避な現実である。特に意識を持つ人間にとって、老いと死は絶望と闇として行く手を遮り、倒れくる眼前の絶壁である。人はこの老いと死を眼前にしてなす術を持たない。 ただ運命として引き受けるだけである。

  キリストの救いの対象は「苦しみと死」である。老いは直接の対象にならないが、人は水と霊によって「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3.3)と言うところから思うに、霊的次元での若々しさの回復も、救いの対象となっていたとも言えよう。
  しかし人間を「苦しみと死」から解放することは、イエスが直接に意識したことである。イエスは自ら十字架を担い、苦しみ、死んだ。そして「復活する」という一連の業を通して、「苦しみと死」を無力化し、それに新たな意味を与えた。これによって苦しみと死は絶望や闇ではなく、希望、光となった。
  キリストの「復活」の神秘を、人間の実証科学的視点で事実的事態として解明することは出来ないが、キリスト者は復活の神秘を信仰的事態として受け止め、日々を生きる現実的な力としている。

  イエスの招きに応え、イエスの後に従う人たちは、キリストの「救いの業」を今、時代と空間を超えて、そこで引き継ぐ者たちである。その意味ではキリストの「救いの業」がもたらす「命の神秘」を最も強く感じ取っている人たちであるし、同時に今、生きるその時代の人々に、キリストの救いの業がもたらす力を、最も合理的かつ効果的に伝える人々である。

  実際、イエスに従う人たちは、「全てを捨てること」が求められる。「そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。」(ルカ5.11)生活の糧を得る手段を置いて、イエスに従うことは、或る意味でこの世の価値観の放棄、この世的命への死(ルカ14.26)を意味する。イエスの愛の教えを本当に具体的に生きるためには、自分の命の放棄を覚悟しなければならない。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15.13)
  キリストに従う召命、それは「自己放棄と死」を覚悟する道である。師であり頭であるキリストが歩んだ道を、その弟子たちも歩むのが当然である。イエスの生涯を、今ここで具体的生き、人々にイエス・キリストを実感させるのが、弟子である福音宣教者の任務だからである。

  キリストの招きに応える人は、常にキリストの霊である聖霊の力によっていつも新たにされることであり、キリストに倣い苦しみと死ぬことであり、キリストの復活の恵みによって、繰りかえし復活することである。キリストからの召命に生きる人は「苦と死」に意味を見出し、「苦と死」を力とする人である。