司祭、修道者への召命に応える人が減少している。キリスト教だけでない。他の宗教にあっても信徒数が減少している。日本だけでない。経済的豊かな国では宗教人口が減少している。宗教の時代が終わり始めているのだろうか。あるいはパラダイム的転換が求められているのだろうか。
現代社会を、カトリック信仰から力を得て生きる者にとって、カトリックの教えが全面的に時代遅れであるとか、意味が無いと感じることはあまりないであろう。他方、実証科学主義、心理主義、現世中心主義、功利主義などの立場から宗教を見る人たちにとっては、神仏の教えを信じ、そこから力を得て生きる宗教的生き方は無意味であると感じることであろう。 カトリック信仰に意味を見いだす人があれば、他方では宗教を持つこと、信仰を生きることの無意味さを感じている人も少なくない。それゆえ信仰を持って生きるか否かは、その人自身に委ねられた価値観であるといえよう。キリスト教信仰が自分の生活を霊的に豊かにしないなら、信仰を持つことは無意味だし、その信仰が自分も、他者も霊的に豊かにすると感じているのであれば、信仰を持って生きることには意味があることになる。
キリスト者にとって、信仰の対象はキリストであり、キリストに聴き、キリストに従うことである。
シモン・ペトロは「舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。」ペトロに何が起こったのであろうか。ペトロの召命は、現代に生きるものにも通じるものがあるだろうか。イエスから「今から後、あなたは人をとる漁師となる」と言われるためには、何が必要なのだろうか。
1.奉仕を面倒くさがらないこと。
漁師たちは、夜通し漁をしたが、何も捕れず舟から上がり、網を洗っていた。そこにイエスが来て、さっさと「シモンの持ち舟に乗り、岸からこぎ出すように」頼まれた。そして「腰を下ろして舟から群衆に教え」られた。ペトロは疲れていたであろうが、面倒くさがることもなく、イエスの願いを聞いている。主は誰を使われるのか。しばしば働き疲れ、収穫もなく希望を失いかけている人の側に来られ、小さな奉仕を頼まれる。面倒くさがることなく、願いを聞き入れ奉仕する《素直さ》こそが、イエスに従うためには必要である。
2.イエス・キリストの教えを聴くこと。
イエスは舟に腰を下ろし群衆に教えた。同じ舟に乗っていたシモン・ペトロもその話を聞いていた筈である。夜通しの漁で疲れていたかも知れないが、人々の目はイエスに向けられ、同時に同じ舟の中にいたシモン・ペトロにも向けられていた。風が吹いても流されないように舟を制御しながら、ペトロはイエスの話を間近で聞けた。
イエスに従うものは、疲れていてもイエスが容易に人々に語れるように、イエスが乗った舟を操りながら・・イエスの語ることを間近で聴く人である。
3.イエス・キリストの助言を聞き入れる謙遜さ。
群衆への話が終わると、シモン・ペトロにいう。「沖に漕ぎだして網を降ろし、漁をしなさい。」
シモン・ペトロは漁師。何年も漁をしている。ペトロはいう。「先生、わたしたちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかしお言葉ですから網を下ろしてみましょう。」イエスの言葉を聴いた後だったからか素直に従う。自分たちが漁の専門家であることは、ひとまずとなりに置き、イエスに聴き従う。この謙遜さが大きな結果をもたらす。
4.自分の限界を知ること。
自分たちが夜通し働いても、何も捕れなかった。漁師としての自分たちの力の限界を自覚していた。人間は自分の力に固執することなく、その限界を認め、他者の助言に聴く謙虚さが大きな結果をもたらすのである。
5.神の恵みに触れる。
網が破れそうになるほどの、大量の魚が網にかかり、舟が沈みそうになった。イエスの助言に素直に聴いた結果が「恵みの実感」となった。 「捕れた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いた」。
6.恵みの実感は、シモンに「罪深さを自覚」させる。
シモン・ペトロはお言葉通りに網を下ろしたら大漁だったので、神の恵みの偉大さに驚き、自分の罪深さを告白することになる。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものなのです。」この告白がシモン・ペトロの人生の転換点となる。イエスはシモン・ペトロに「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師となる」と言われた。
7.すべてを捨ててイエス・キリストに従う。
神の恵みに触れたシモン・ペトロとゼベダイの子ヤコブそしてヨハネたちは「舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。」自分たちで生活を立てるための道具を手放しした。 これから先はイエスに全面的に聴き従い、人々に食を頂きながら、生きて行く道にはいるのである。
結び
今の時代にイエスに従うことは容易ではない。人間の個人の望みと理解をこえている。自分個人の利益を求めるなら召命の道は閉じられていく。 自分の弱さ・罪深さを知ることなく、主に聴く者でないなら、召命の道は閉ざされていく。逆に苦しさの中で、自分の限界を知りながらも、忙しさの中でも、疲れの中でもイエスに聴くことが大切である。イエスの言葉を聴き従う謙虚さ、柔和さが不可欠である。神の恵みに触れ、自分の弱さ、罪深さを認める素直さが必要である。そして全てを捨てて従うこと、すなわち自分の力で生きることから、生かされて生きることへの全面的方向転換が必要である。 <完> |