このWEBページに辿り着いた方々はどのような時に真の愛を考えたり、神様による召命のことを感じたりするのでしょうか。
自分の小学生の頃には、周りの人々に連れて行かれてお寺のお祭りに参加したこともあり、また、中学の時には同級生のクラスメイトのプロテスタント教会に連れて行ってもらったこともありました。
しかし、自分には真の神様の愛というものがなかなか感じられませんでした。大人になり聖書を読むうちに、天の父である神様に、「一度カトリック教会に行ってみたいです。もしも、もしもそこでもあなたのみことばにある愛を感じられない時には他の宗教にいってみます。」と祈ってカトリック教会に行きました。幸いに、司祭、ブラザーやシスターの方々の奉仕や生き方を見て、自分が読んでいた聖書にある隣人へ愛を感じましたので行き留まることになりました。
私が神様の恵みである召命を感じて考え始めたのは、教会に行き、聖書というみことばを読んだ24歳の頃で、読むうちにみことばが非常に好きになりました。その時は、朝起きて膝まづいて祈り、聖書を一時間ほど読んだ後に出勤し、夜も寝る前に欠かさず膝まづいて祈った後に一時間ほど聖書を読みました。聖書が難しくて分かり難いと言われる人もいますが、私は聖書を読む前に必ず聖霊に、「聖霊が私を導いて教えてくださるように」と祈ったためか、純粋な心で開かれた気持であったためか、定かではないが、聖書が理解できるような気がしました。
特に、「すべての創られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)というみことばを読んだ時には非常に心に響き、自分の命を神様に捧げたいという気持ちになったことがありました。神学校に行きたいという気持ちで一杯でしたが、司祭職は神様から呼ばれるものであって自分の意思でなろうとするのは傲慢なことだと思っていましたので、周囲の人には相談をせず、神学校の入学条件等を調べたりしていましたが、長い間お祈りだけは絶えずに続けました。
しかしながら神様からの直接の御声はありませんでしたが、年を取りながらも24歳の頃の気持ちは消えないまま自分の心にありました。
40歳を過ぎる時のある日、突然知り合いの神父様から電話が入り、修道院の召命の集いに参加してみないかという誘いがありました。その時にやっと自分が長い間祈っていたことが神様に届いたと思い、喜びながら神父様に相談をして修道院や教区の召命の集いに参加させていただき、神様の一層のお恵みを感じることになりました。
これだけ長く愚かな自分のことを書いたのは、神様の最大である召命の恵みを、もしも少しでも感じることがあなた方にあるならば、自分だけで考えたり判断したりするのではなく、委ねられる司祭、ブラザー及びシスター方々にぜひとも相談してほしいからです。
私の信仰はたいしたことはないかもしれませんが、あの時に読んだみことばが今も生きていて私を神様のところに向け続けていると感じています。
主の栄光と平和のうちに、主とともに永遠に生きるように。
ガブリエル孫聖和
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