日本人にとって8月は特別な月である。8月15日は終戦記念日である。それに先立つ8月6日に広島に、8月9日には長崎に原爆が落とされ、多くの方々が戦争の犠牲になった。戦後72年になり、今や多くの人々が戦争の経験をもたず、平和の中で育ってきた。戦後から現在に至るまで、日本に住む人たちは戦後の経済成長を味わい、自由と豊かさを享受してきた。アジアの身近なところで戦争があり、多くの人たちが死んで行ったが、日本人はそれを他者の事として、安穏に眺めてきた。
もし日本に戦争の危機が迫ったなら万事を尽くして《話合いによる解決》をはかる、戦争ができない国民となった。誠に理想的な国であるが、イギリスの思想家ホッブスがいうように、「人間は闘争する存在」であるなら、話合いでも強引に自己主張し譲らない相手国もあるだろう。その時でも日本国民は、お互いのそれぞれの国民の利益を考え、忍耐強く、時間をかけてでも、軍事力によらず話合いで解決するべきである。その時、プライドに固持するとすれば、国民に苦しみ、困難、死を強いることになる。
キリストは私たちに平和をもたらすために来た。エフェソ書の中でパウロは「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊したのです。(2:14)」と述べている。キリストは愛の人であった。キリストは言う。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13.34) このキリストの言葉に従い、キリスト者は「キリストが愛したように」お互いに愛することが求められる。キリストが愛したようにとは、すべての人を、また自分に敵対する人をも愛することである。キリストは言う。「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」(ルカ6:27) キリストが愛したように愛することは敵をも愛することであるから、その愛は痛む愛、損をする愛、死を覚悟した愛であり、神が人を愛するごとき愛である。実に神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)のである。キリストにならい、その愛に生きる為には、広い深い永遠の無限の愛を体験し味わうべきである。そのためには自分中心の愛、我欲に満ちた愛を浄化する必要がある。
そこでキリストは、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」と言われる。キリストの教えを聞き、その生き方を生きるためには、相互関係を再度見つめ直し、浄化することが必要である。我欲に満ちた、自分の親族のみの、あるいは自国民のみを重視するあり方では、真の恒久的平和は構築できない。
真の平和を得たいなら、キリストが、それに生き、それを示し、そのために死んでいった「敵をも愛する」愛、悔い改めて謝る者を「7の70倍もゆるす」(マタイ18.22)愛が必要である。
平和で豊かで自由な世界に育ったわたしたちは、父親や祖父たちが近隣諸国の人々に、戦争を通して与えた苦しみと憎しみを痛感し、近隣諸国の人々に謙虚に頭を下げつつ、未来において報復の戦争が始まらないように、痛んででも他を愛する「平和の使い」となるべきである。アジア諸国の人々のみならず、全世界の人々と手を取り合って、共存、共栄、共創の世界を構築するべきである。
現代、アジア諸国においても経済繁栄のゆえに、軍事力に力を入れ、人間の力、我欲が強大化し、赦すことを忘れ、相手を支配しようとする傾向が見られるようになった。それと同時に神離れ、宗教離れが顕著になっている。神仏を離れた人間の心は荒み、自分の力で相手をねじ伏せようとする傲慢さが、台頭してきている。
こういうときにこそ、平和の真の意味を知り、平和のために、身近なとことろから地道に働く宗教者が不可欠である。かれらは真の平和がどこから来るのか、どこにその力を汲むべきかを知っているからである。このことは今を生きるキリスト者に与えられた使命である。
キリストは時を超え、今も働いている。この地上で正義と平和に満ちた神の国が実現するように。このキリストの永遠の使命を、今ここで具体化するのは、私たちキリスト者であり、キリストに似姿に生きる司祭たちである。 <完> |