いよいよ12月です。今年ももう終わりかと思い、またクリスマスを迎えることに心が沸き立ちます。日本でもキリスト教の行事としてまず思い浮かべられるのがイエスの誕生日のクリスマスです。日本人は気が早いのか11月からデパートなどはクリスマスの準備を始めています。さて主の誕生をあらわした言葉を聖書に求めてみます。
『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。』(Iヨハネ 4・9)
私たちが信じる前から、私たちが愛する前から、神様は私たちを愛し、私たちのためにそのひとり子をこの世に遣わして下さいました。神様の先行する愛によって、私たちはいのちを得ました。いつも神様は私たちを愛し、私たちが気づかないうちから導かれています。行く先が困難に思えても、愛に満ちた神様がともにおられます。(清水雅夫)
ここには救い主を遣わした事は書かれていますが、その月日は書かれていません。ただイエスは愛の象徴としてこの世に生まれました。
歴史をひも解いていきますと、3世紀ごろまでは主イエスの誕生日は現在の12月25日という日には決まっていなかった様です。そして自然崇拝の中で冬至の翌日、つまり日照時間がこの日を境に長くなって行く日を特に太陽の復活の記念として祝った事が、次第にイエスの誕生日と結びつく様になったという説もあります。
お生まれになった日にちの正確さより、現に主イエス・キリストがお生まれになったという事が大切な事だと思います。
さて私のクリスマスの思い出としては、幼稚園の頃、私は日本キリスト教団の幼稚園に通っていたのですが、クリスマスの聖劇がありました。人一倍背が小さかった私は、いつでも羊飼いの羊の役、マリア様とヨセフ様役はいつも一番大きい友達に決まっていました。
それから13年後、上智大学の、今はソフィア・タワーになってしまった場所にあった食堂の片隅で24日の夜から25日の朝まで、亡きフォーブス神父様を中心にしたパーティーに4年間毎年参加しました。夜中にロウソクを持ってお祈りをしていると、とても眠くなります。いつの間にか目を閉じてしまい、ロウソクが傾き、前の人の髪の毛を少し焦がしたという事もありました。
私は今生きている、というか主の愛によって生かされているという事を日々実感し、感謝の内に毎日祈り、そして一人の人間としての生活を続けております。み旨なら来年もどうか良い年として迎えることを祈っております。 <完> |