「あなた方がわたしのうちに留まっており、わたしの言葉が、あなた方のうちに留まっているなら、望むものをなんでも願いなさい。そうすれば、かなえられる。あなた方が多くの実を結び、私の弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
あなた方がわたしを選んだのではなく、 わたしがあなた方を選んだのである。わたしがあなた方を任命したのは、あなた方が出かけていき、実を結び、その実りがいつまでも残るためであり、また、あなた方がわたしの名によって父に願うことは何でもかなえていただけるようになるためである。あなた方が互いに愛し合うこと、これをわたしはあなた方に命じる。」
(ヨハネ15・7〜8、16〜17)
これは、ヨハネ福音書の「イエスはまことのぶどうの木」という有名な箇所の中にある数節です。イエス様は、弟子たちに「わたしはまことのぶどうの木であり、あなた方は枝である」と言われます。もちろん、弟子たちはイエス様と共に生活し、教えを受け、その言葉によって清くされました。
イエス様は、自分勝手に話されるのではなくおん父のみ心に忠実に語られておられます(ヨハネ14・10)。弟子たちは、おん父の言葉をイエス様が語られる言葉を聞いているのです。弟子たちは、イエス様の言葉を自分たちで黙想し、生きたものとして宣教に出かけて行きます。これは、私たちにも託されたイエス様の言葉といってもいいでしょう。この箇所の「弟子たち」は「私たち一人ひとり」に置き換えることができるのです。
私たちは、イエス様の弟子として木であるイエス様にしっかり留まり、養分を受け実を実らせるように出かけて行かなければなりません。私たちにとって【実】は、私たちが受けた使命であり、働きである【福音宣教】の実りなのです。もちろん、そのためには、人間関係であったり、経済的なもの社会性や地域性などであったり様々な困難さを生じることでしょう。そのような私たちの力ではどうすることもできない困難な問題に対してイエス様は、「望むものは何でも願いさない」とか「あなた方がわたしの名によって父に願うことは、何でもかなえていただけるようになるためである」と【願う】ことを私たちに伝えます。イエス様のこれらの約束は私たちにどれほどの勇気をくださることでしょう。
イエス様は、私たちに「あなた方がわたしを選んだのではなく、わたしがあなた方を選んだのである。」と言われます。私たちは、イエス様から選ばれ、私たちの全てを使って【福音宣教】へと派遣されたのです。私たちの働きは微々たるものですが、私たちの後ろには、イエス様がおられ、さらにその後ろにはおん父がおられるのです。ここに、このみことばの素晴らしさがあるのではないでしょうか。
私たちの召命は、おん父とイエス様から選ばれそれぞれの場に行って【福音宣教】をすることです。 もちろん、司祭、修道者という召命だけではなく、独身者や既婚者も含めての召命ですし、幼い子たちも、歳をとった人たちも全てを含めての召命です。私たちは、おん父自らが栽培者となって手入れしてくださり、ぶどうの木であるイエス様の愛をいただき、言葉をいただき、ぐんぐんと実を結ぶ枝となるように成長させていただいているのです。
私たちの【福音宣教】は、一人ではできません。イエス様は、「あなた方が互いに愛し合うこと、これをわたしはあなた方に命じる」と言われます。愛がない【福音宣教】はありえません。実り結ぶ相手への【愛】であり、家族、教会共同体、または、修道会の兄弟姉妹との【愛】をも含めて「お互いに愛し合う」ことをイエス様は、私たちに命じられたのです。
私たちは、この【愛】を身につけ、イエス様の言葉によって清められ、おん父に願いをしながら【ぶどうの実】をつけて行きたいものです。 <完> |