No21~No40 / No1~No20
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No41
今からの後、あなたは人間をとる漁師になる。
(日本カトリック神学院 大山悟 p.s.s)
ルカ 5・4-11
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No42
新しい人として生きる
(関口教会所属 藤倉彰三)
マタイ 16・26
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No43
言と司祭
(日本カトリック神学院 大山悟 p.s.s)
ヨハネ1・1-6
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No44
マタイ5章山上の説教と映画「沈黙」
(麹町教会所属 松室康彦)
マタイ5・3-10
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No45
神様の真の愛を求め、召命を考える人々へ
(ガブリエル孫聖和)
マルコ16・15
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No46
キリストの平和とキリスト者
(日本カトリック神学院 大山悟 p.s.s)
マタイ10.34-39
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No47
本物を生きる
(イエスのカリタス修道女会
シスター永田 リツ子)
ヨハネ10.11-18
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No48
神の国の発展と萎縮
(日本カトリック神学院 大山悟 p.s.s)
マタイ13.31-33
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No49
「クリスマスに思う」
( カトリック麹町教会 松室康彦)
Iヨハネ 4・9
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No50
四旬節の霊性
(日本カトリック神学院 大山悟 p.s.s)
マルコ1.12-15
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No51
復活の神秘と理解
(日本カトリック神学院 大山悟 p.s.s)
ヨハネ20.2-4
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No52
ぶどうの実」を結ぶ
(聖パウロ修道会 井手口 満修道士)
ヨハネ15・7〜8、16〜17
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No53
自然の中で神の〈あわれみ〉に〈生かされて〉生きる
(日本カトリック神学院 大山悟 p.s.s)
ヨハネ17.16-23
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No54
十字架と司祭
(日本カトリック神学院 大山悟 p.s.s)
1コリント2.1-5
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No55
見えるようにしてください
(聖パウロ修道会 井手口 満修道士)
マルコ10・46~52
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No56
ストレイ・シープ
(麹町教会所属 松室康彦)
マタイ5・3-10
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No57
星に導かれて
(聖マリア修道女会 小田切智惠子)
マタイ2・1~12
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No58
司祭と福音宣教
(日本カトリック神学院 大山悟 p.s.s)
マタイ28.18-20
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No59
人生は福音の歌 ―聖マタイ使徒福音記者の祝日によせて
(イエスのカリタス修道女会   
永田リツ子)
マタイ9:9-13
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No60
キリスト教と結婚
(麹町教会所属 松室康彦)
ルカ17.10 一部
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*人は喜びを求める
 人は喜びを求め、喜びの中にいつまでもいたいと願う。喜びを得るために汗を流しながら働く。喜びは自分の望みを満たすことである。この自分の喜びには、自分自身のためのものや、あるいは身近な他者の成功や喜びなどがある。「他者の喜びを喜びとする」のである。

*喜びは苦しみを経て得られる
 しかしこの世界に生きる限り「喜び」は「苦しみ」を経て得られる場合が多い。子供の誕生は大いなる喜びであるが、母親にとっては産みの苦しみの後の喜びである。試験等に合格した喜びは、受験勉強を経た後の喜びである。スポーツに於ける勝利の喜びは、苛酷な練習を経た後の喜びである。子供の成長の喜びは、多くの人の助けや苦労の結果としての喜びである。収穫の喜びは地道な手入れの苦しみの結果としての実りの喜びである。
 いずれにせよ、この世界に生きる限り「喜び」は苦しみや困難、辛さ、孤独、痛み、犠牲を経た後に得られるものである。言い換えれば、人はいつも「苦しみ」「十字架」に直面して生きている。この十字架と共なる生活が、日常ということであろうか。
 自分は、今は何の不安、恐れ、苦しみ、痛み、辛さもないと云ったところで、一つ視点をかえて考えれば、未来に向けて生きる不安や恐れは、人間なら不可避である。わたしたちの毎日は「十字架」に向き合うことにほかならない。

*司祭と十字架
 さて、司祭たちにとって「キリストの十字架」は必ず、毎日仰ぎ見るものである。祈るとき、聖体の秘跡を執行するとき、キリストの十字架は常にそこにある。あまりにキリストの十字架を見ることになれ、その意味と重さを見失いがちである。キリストの十字架は、神の御ひとり子イエスによる「罪の贖い」のわざ、「命がけ」のわざの姿である。カトリック教会は磔刑の十字架を祭壇の近くに置くが、それはキリストの贖いが抽象的なものでも、過去のものでもなく、今、ここで具体的に、時間を超えて永遠からなされている命がけが贖いのわざの具現性を感じ取らせるためである。キリストの十字架に慣れてしまい、そこに十字架があるのか、ないのかも意識しないようになってはならない。キリストの十字架は、「命がけ」の永遠の救いのわざであるから、その意味と重さをわたしたち司祭は自分の実存の内奥で捉えたいものである。
 司祭は誰よりも、まず自分の十字架に気づき、その十字架をしっかり担いたい。パウロは云う「思い上がることのないようにと、・・一つのとげが与えられました。」(2コリ12.7)パウロはその生涯、担った〈一つのとげ〉によって、自分の弱さを誇ることが出来たのである。
  12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。(2コリント12.9-10)
 自分が日々になう十字架を大切にすることで、司祭たちは自分の知恵や能力を誇ることなく、むしろ自分の弱さを認め、イエスに聴きながら、すべてをゆだね、そしてイエスの霊、聖霊から力を頂きながら司祭の使命を果たすことができるのではないだろうか。パウロは自分が弱っているとき、ただ「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまい」(2コリ2.2)と心に決めていた。
 パウロにとっては「十字架のキリスト」がΑでありΩだった。それは人間の知恵、考えではなく、神の霊と神から力が溢れる源泉であった。パウロの実存の力のそのものであった。
 司祭は、また自分の十字架だけでなく、同僚司祭、司教、信者、他の人々の十字架を理解し、彼らと共に歩む使命がある。イエスは言われた。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11.30) 今、イエスはこの世界に現存させる使命を担っている司祭たちは、キリストを現存させる者として、人々と共に、人々の十字架を共に担いながら歩むのである。

*苦しみ、十字架に意味があるか
 「苦しみ」そのものはあるべき姿の欠如であり、悪であり、避けたいことがらであり、存在の歪み、否定であり、そこには意味はない。しかし上述したように「苦しみ」はそれに続く事態との関係で考えられるとき、意味あるものとなる。
 「苦しみ」の意味と質が大いに変化するのは「キリストの十字架」との関連で「苦しみ」の意味が問われる時である。すなわち「キリストの十字架によって「苦しみ」は〈聖化され〉意味が与えられた。つまり神の子イエスが十字架を担い「苦しみ」「死ぬ」ことによって、〈苦しみ〉と〈死〉が聖化された。故に人が自分の「苦しみ」を引き受けることや、他者の「苦しみ」を共に担うことには、意味があり新たな希望や新たな命(復活の命=永遠の命)を得るために必要、不可欠なこととなった。
 「キリストの十字架」によって、「苦しむ」人は孤独ではない。キリストが今、ここで共に歩んで下さるから。 「不安」「恐れ」「痛み」「辛さ」などの状況における苦しみにおいても、キリストは希望と命の回復、あるいは永遠の命を与えて下さる。「苦しみ」や「死」を通してこそ、「真の不変的命」「永遠の命」に至ることができる。

*むすび

 現代に生きるわたしたちは、今一度「キリストの十字架」を意識したい。キリストの十字架は人を罪から救い出す神のあわれみの姿であり、この世界であらゆる苦しみにあえいでいる人々と主が共に苦しまれているしるしである。またキリストの十字架は「苦しみ」と「死」のしるしであると同時に、その次にくる「復活」「永遠の命」の希望でもある。十字架を仰ぎ見ながら、永遠の命への希望、しるしであることを意識したい。

<完>