ティマイの子でバルティマイという名にご記憶あるでしょうか。彼は、イエス様がエリコからエルサレムへ向かう途中に癒された盲人で物乞いをしていた人です。彼は、群衆の中にイエス様がいることを知ると「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」……「ダビデの子、憐れんでください」と一生懸命に叫びます。文面では、2回叫んでいますが、きっと、何度も何度も彼の声がイエス様に聞こえるまで、イエス様が答えてくださるまで叫び続けていたことでしょう。
彼の声は、イエス様に届きます。イエス様は弟子たちに 弟子たちも彼のところに行き「安心しなさい。立ちなさい、あなたを呼んでおられます」と伝えます。ここに、召命の神秘があるのではないでしょうか。私たちの召命は、直接イエス様からの「呼びかけ」ということはないこともあります。しかし、イエス様は、人伝いに「呼びかけ」また、人の行動を通して「呼びかけて」おられます。
ここに、召命司牧として人々をイエス様の道具として促す人とその促しに応える人が生まれるのではないでしょうか。私の召命は、身近におられた神父様との関わりでした。私は、その神父様から「神父になりなさい」と一言も言われたことはありませんでした。しかし、私は、その神父様のようになりたいという気持ちが召命のきっかけとなりました。
イエス様は、バルティマイに「わたしに何をしてほしいのか」とお尋ねになられます。ここで初めてイエス様は、彼に直接お話なられます。彼は、「先生、見えるようにしてください」と言います。この「見えるようにしてください」と言うのは、彼の肉体的な目が見えるようになるという意味もありますが、彼自身の将来についてこれからの道について「ハッキリとしたもの」が見えることが出来るようにという意味にも取れます。
私たちは、自分が行くべき道に迷うことがあります。司祭、修道者の道、教会での奉仕、社会の中での奉仕などなど、または、日常の信仰生活など「ハッキリと見えない」、暗中模索の状態があります。 もちろん、司祭になっても、修道者になっても「自分の召命を見つめるとき」「暗闇をさまよう」ことがあります。そんな時、私たちはイエス様に「見えるようにしてください」と願いたいものです。マントを脱ぎ捨て自分の弱いところも全てをさらけ出し、また、自分の全てを捨てて、心から謙虚な気持ちで、イエス様に願うことが出来たらいいですね。
イエス様は、私たちに「よろしい、あなたの信仰があなたを救った」と私たちに語りかけてくださることでしょう。この愛と力に満ちたイエス様の声に信頼して委ねる勇気を祈り求めたいものです。
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