2019年4月より、東京と福岡の神学院がそれぞれ個別の神学院として再出発する。この10年日本カトリック神学院という一つの神学院の元に二つのキャンパスが維持されてきた。一つのカトリックの神学院としての、この10年経験は、その期間、そこで養成された神学生を種々の面で豊かにしてきた。自分の教区や管区のことだけではなく、日本の教会が直面している問題を意識しながら、養成に取り組めたことが、何よりの学びであり、体験であった。
神学院での養成は、いうまでもなく、キリスト宣教者、司牧者の養成である。キリストを今の時代、その司祭がいるそこに現存させる司祭の養成である。司祭を見る人が、その司祭を通してキリストを感じ取れるほどに、その司祭がキリストを映し出せるものになることを目指して、司祭養成はなされる。しかし実際にはそこまでには行き着かないだろうが、少なくとも養成を受ける神学生は、その意識で日々生活している。
神学院の養成は4次元からなされる。人間的養成、霊的養成、知的養成、宣教・司牧的養成である。この4つのバランスが重要であり、どれか一つのみを強調することはできない。 人間的養成においては、自分の心の深みを知り、自分を生かす神の力を実感し、過去に受けた心の傷を癒し、十全な人間関係ができること、情緒的安定を保ち得るように養成される。心の傷が癒されないままでは、情緒的安定は保てず、神の恵みを素直に受け止めえず、自分を否定し、他者を歪んだ目で見てしまうことになる。ゆえに人間的養成はまず優先されるべき養成である。
しかし司祭は神との関わりに生きる人、神から力を汲みながら生きる人である。 自分を根源から支える神の恵みから力を得て生きる人である。人間的養成もこの霊的養成において十全化され、完成される。
司祭は神とその教えを、カトリック教会の教えの方法を用いて、人々に伝える使命がある。故に知的養成が必要となる。
司祭は知的学びを通して、神の教えの神秘に触れ、それを、生活を生かす力に同化させることで、教えと生きることが一つになっていく。神からの恵みと教会による教えを存在全体で受け止め、それに生きる時、その司祭から神の恵みと教えが溢れ出る。これが宣教であり司牧となる。司祭を生かす〈恵みと力〉を人々に伝える時に宣教となり、その〈恵みと力〉をすでにキリスト者となっている人に、感じ取らせ、その生活を霊的次元で活気づける時、司牧となる。
従って、福音宣教は、「よい便りを伝える」ことではあるが、神について、教会についての知識を伝えることだけではない。その司祭から溢れている〈生きるため〉の「恵み・力」を分かつことである。
イエスは弟子たちを福音宣教に派遣するにあたり、「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」といわれる。司祭としての宣教の使命は、いつも「共にいる」キリストを人々に出会わせることである。人々が司祭を通して、キリストと出会い、キリストから力・恵みを受けて本来の自分を回復し、喜びに満ちるとき、その喜びは他の人に溢れ出ていくことになる。こうして神の恵みは、滞ることなく、司祭がいるそこから絶えず溢れ出ていくことになる。
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