誰もがあるとき、生き方を求めるものです。
私は小学生のとき、偉人伝を読んで、これと思うことに自分を賭け、それによって人々や世界のために生きていく姿に心魅かれたものです。また、家庭を築いて愛する人と二人三脚をして充実した人生を生きることもやはり素敵な生き方だと思いました。でもまた、私の存在を絶対的に肯定し、私の心と体を満たし、私のために生命を賭けてくださった方のために損得を超えて生きる生き方も消すことができないものとして心のどこかにありました。踏み出す一歩は不確かでも、心の促しに誠実に、招いてくださる方に全幅の信頼をおいて歩み出していく道もあります。それは次のような言葉とも重なります。
“みこころよ
ある日、あなたは言われた
「私について来ないか」と。
私は不安で、全てをかかえたまま。
だけど、あなたに向かって歩き始めた。
あなたへの道は長く険しく、幾度も倒れ、涙するけど、
あなたはささやく、私の心に
「恐れるな。私はあなたと共にいる」
聖心よ、想いのままに私を連れていってください。
聖心よ、思いのままに、どこまでも私を導いてください。
聖心よ、燃えるようなあなたの愛の火を私の中にいつまでも燃え立たせてください。“
ご自分の命を生きるように招き続け、この小さな私にもご自分を託し、すべての人にご自分を運ぶように招いてくださる神の招きに心を大きく開きたい。“キリストに根ざして生きる”ことから生まれる信仰の喜びを伝え、神の国のために、カトリック召命チームと共に、修道召命の輪をもっと広げませんか。
2012.01.15
|