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司祭、修道者、そして信徒使徒職として生きること。それぞれの召命の道。
神が自分に何を望まれておられるのか、祈りによって知ることができると思います。
種々の「召命」の道をご紹介しましょう。
教区司祭の道 修道者の道 信徒使徒の道
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  ヨハネ福音書に、復活したイエスがペトロに現れる場面があります(ヨハ21:1f)。そこでは、ペトロは、他の弟子たちと一晩中漁をして一匹も取れず、さりげなく近づいたイエスに「舟の右側に網を打ちなさい」という言葉をかけられ、大量の魚を得ることになります その時、ペトロは「主だ!」と気付き、湖に飛び込んで、イエスのもとに走り寄ります。この後、イエスはペトロに3回、「私を愛するか」と聞き、3回にわたって「あなたを愛します」と答えるペトロに、「私の羊を牧し、(死にいたるまで)私にしたがいなさい」」とおっしゃる場面が続きます。
  この場面の意味は何でしょうか?
  実は、ルカ福音書5章をみると、この復活物語の内容がペトロの召命の物語とまったく同じ内容であることがわかります。そこでは、奇跡の大漁の後、ペトロはイエスに「あなたは人間をとる漁師になる」と言われていました。ですので、復活したイエスは、ペトロに現れる際、「わたしがお前を呼んだこと、私がお前を召しだしたことを想い出してほしい」という心からのメッセージを伝えに来られたのだ、ということがわかります。
  そして、もう1つ、召命を考える上で重要なメッセージがあります。それは、ヨハネ福音書がさりげなく「(漁の前)ペトロは裸だったので」と書き添えている点です。
  ペトロはイエスが大好きでした。 そして、弟子団の中では一番弟子を自認していましたし、イエスにあこがれて、イエスと同じように「湖の上を歩きたい」と思っていました(イエスのように苦しむ人のそばに寄り添いたい、奇跡で病の人をいやしたい、悪霊を追放したい、などのあこがれの象徴です。マタ14:22f)。パンの奇跡の場面では、多くの弟子たちが離れ去った時、勇んで「主よ、私たちは誰のところに行きましょう」と答えています(ヨハ6:68)。十字架の出来事の直前には、「あなたのためなら命を捨てます」とさえ宣言します(ヨハ13:37etc)。 
  その結果は、皆さんご存じの通りです。ペトロは3回にわたり「わたしはあの人を知らない」と答え、自分の心の弱さを嫌というほど味わうことになります。    
  復活の場面に戻りましょう。   
  さて今、ペトロはイエスの受難とその死を、まるで「自分の罪の結果」であるかのように背負って湖の上にいます。 魚もまったくとれません。 そして、裸、なのです。 この裸は、「自分の心の自負心、プライド、一番弟子という肩書など、すべてを脱ぎ捨て、恥の中に自らをすべてさらけだしているペトロの姿」なのです。
  このペトロに対して、イエスはどうなさったでしょうか?
  最初に書きましたように、「舟の右側に網を打ちなさい」と、最初から懇切丁寧にペトロに寄り添っていかれます。そして、イエスを渡した(これ以上考えられないほどの致命的な裏切りである)「私はこの人を知らない」という3回の言葉を、「愛しています」と同じ3回、口にするだけで、すべてを帳消しにし、さらには、自らの福音のメッセージを伝えていく全面的な信頼をペトロに託すイエスの姿が描かれます。   
  ペトロの驚きは、どれほどだったでしょうか。そして、ペトロの本当の召命は、ここから始まります。   
  召命とは、「神の呼びかけ」と「人の応答」という出来事です。しかしそれで完結するものではありません。  イエスの受難と死、そして復活という出来事の中に、自分の全存在が巻きこまれること、 そして、イエスの前に、自分のアイデンティティー、誇り、プライド、社会的な肩書、理想、理念などをいっさい投げ出して、まる裸で立つこと、そして、そこから、自分の心の中の偽りをすべてひっくり返し、神の前に誠実に生きようと覚悟することです。
  そこで「私に従いなさい」という声を聞きとることができれば、すばらしいことだと思います。

  司祭の特別召命をいただいた者として、神が人を呼び、人間は神に応えていくといういわゆる召命の問題に対して、若いときからわたしは大きな関心をいだいてまいりました。
  1960年代に行われた公会議まで、”神の招き”ということばが流行していました。旧約時代の預言者、新約時代の使徒とその後継者・・・・いつの時代においても、教会の中で一つの使命を果たすため、神に選ばれた人々が大勢いたと言えます。ところが、公会議がもたらしたあたらしい風や、その後起こった特別召命の急激減少がきっかけとなって、「召命」というとき、神の呼びかけだけでなく、人間がどういう心の姿勢で応えていくかが重要なポイントとなりました。そしてその結果、召命の問題に対する人間科学的な研究が営まれ、召命神学のほかに、召命心理学、召命社会学、召命教育学その他の学際的なアプローチから、召命学という学問が確立しました。
  興味深いことに、80年代、90年代の召命に関する論文、記事、また書簡にも、心理学的な内容が多く見られましたが、最近は以前より少なくなりました。かわりに、現代召命学では、神のみ心とその恵みと同様、人間の自由意志やその人の適性、努力、人格などの要素も重要であるという均衡のとれた見方が一般的なものとなりました。いみじくも、わたしの論文指導教授が繰り返して教えてくれたように、「召命は神の恵みと人間の自由の神秘だ」ということではないでしょうか。
さて、神様は教会に必ず十分な司祭や奉献者を与えてくださると信じながらも、司祭の数は減少し、大きくなる数字と言えば、その平均年齢を表す数字だけです。そこで特に地域教会はこの問題を重要な問題として受け止め、意識、祈り、研究、行事その他でもって動かなければならないと思います。

具体的に、召命促進とつながり、参考となるようなヒントを下記に述べてみます。

 1 教会で、特に若者と話すとき、人生がすばらしいおくりものであり役割であること、またその役割を発見しそれを精一杯果たすことは人間の道であること、そして人生は深い意味を持つものであり、その追求こそ幸福への道であることを知らせること。

 2 人生は他者に開かれるためであり、特に最高の他者である神に開かれていることが人生の優先課題であると示すこと。

 3 倫理観を持ち、人との連帯性を大事にしながら、自分の人生の計画を進めなければならないことを教えること。

 4 司祭としてキリストに従って行き、言葉、行い、祈りを通して、人々に主の福音を述べ伝え、人々の霊魂の救いのために命をかける人生より喜ばしい人生はないことを示す司祭や奉献者が、若者と接触すること。 微笑みでもって、司祭になってよかったと示してくれる司祭こそ、召命の芽生えの一番のきっかけとなります。

  このような働きかけにより、教会や家庭において、いわゆる “ Vocation culture ”(召命の雰囲気)が生まれ、自然に、若者はキリストに従って行く意味と生きがいを感じられるようになるでしょう。

  なお、国によって、また修道会によって、召命促進のためにさまざまな取り組みが行われていますが、日本では“カトリック召命チーム”があります。
  http://c-v-team.com

  このカトリック召命チームは、池長潤大司教様および野村純一司教様のご指導のもとに、日本における司祭、修道者、信徒の召命の活性化を目指すグループです。

  いずれにしても、召命は神秘です。 神様が絶えず人の心に呼びかけておられますが、呼ばれた人が選ばれた人となるように、私たちが強く希望し、熱心に祈り、自分なりに何らかの形で貢献すれば、必ず新しい召命の花が咲くにちがいないと思います。

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