召命を生きるトップ  <  N0.4 シスター・セシリア・福井直子 「 修道誓願宣立60周年を迎えて」

●召命のきっかけ

  私の場合この事が、召命のきっかけでしたと言うことよりも全てが徐徐に、その方向に確実に向かっていったとしか思えないのです。先ず、家庭内では神・仏に対する敬虔な雰囲気が人間としての根本的な宗教心をごく自然に培ってくれた思い、両親にも深く感謝しています。また、学校では、幸運にも担任の先生は、カトリック信者「雪ノ下教会」でした。戦争の最中で宗教のことなど口にすることは出来ませんでした。でも私は、密かな魅力を感じていましたので、クラスの数人の友人と、新宿中落合の「マリアの宣教者フランシスコ修道会」の老人ホームに日曜毎にボランティアに通いました。仕事を終えると必ず聖堂に立ち寄り、祭壇前で祈るシスター方の美しい姿と、歌声、グローリア・パートリーと唱えながら一斉に、ひれ伏している姿に、しばし戦乱の世も忘れ、全く別世界にいるおもいでした。この光景と声の響きを今なお忘れる事はありません。
現実の世界は、日々悪化し、家族は、朝「行って参ります」と挨拶して出かけても夕方再び顔をあわせられるか全く保証はありません。1945年の終戦の年は、日本全滅の寸前でした。3月9日東京下町の大空襲に続いて5月24日東京青山・渋谷一帯の焼夷弾による爆撃・ついにわが家も一夜で跡かたもなく消え失せました。そして8月15日の終戦を目前にしながら広島・長崎の原子爆弾投下となり、人類が未だかつて味わった事のない悲惨な苦しみに喘いでいる最中(さなか)戦争終結が告げられたのです。 何処の街にも{戦災孤児}が溢れ、自分の家も頼る人もなく彷徨い歩いているのです。この悲惨な状況の中で神様は、私の心の中で急ピッチに働きかけてくださったように思えます。
これも又、ふとしたことで「キリスト教」に本格的に出会うことになり、私が{銀座教会}に要理の勉強に正式に通っていた頃、当時12歳の少女 (戦災孤児)が、いつも私のそばについてきたので要理が終わるとお弁当を半分に分け仲良く食べていました。秋も深まったある日、私の要理が終わるまで寒かろうと思い、なにも疑わずオーバーを貸してあげ、しかもポケットの財布も一緒に。彼女は、そのまま姿を消し再会することはありませんでした。 帰りの交通費もないので神父様にお借りして帰りました。 翌日母と神父様を訪問しました。母が神父様とお会いできたことは、実は素晴らしい神様の摂理でもありました。何故ならここで{要理を勉強していること} は、父にも母にも正式には許可をもらっていなかったのですから。でもさすが兄・姉は、それとなく私を援助し、聖書まで買ってくれました。こうして堂々と1948年2月17日「洗礼」を受けることが出来ました。さてこの先こそ神様の摂理によってトントン拍子に事が運んでしまいました。
銀座教会の新米メンバーとして通っている頃、一人の女性(25歳くらい・三河島教会の信者)に声をかけられ、どうしても三河島教会に案内したいとのこと。私はこれまた疑いもせず同伴させて頂きました。聖堂に入るまえに、ある外国人から「どこから来たのですか?」と問われ、「目黒から来ました」と応えると、地面に地図を書き「祈りが終わったら二人で行くように」と。何ひとつ自分の計画ではないこのプログラムにどうしてこんなに素直な気持ちで、しかも、信頼しきって行動しているのか自分でも考えられません。とにかく辿り着いた所はこれ以上高い所はない坂道のてっぺん。元工兵隊の敷地。「星美学園」でした。大胆にも直接修道院長様にお会いし(威厳にみちた外国人)とんだ処に来てしまったという不安で、何を聞かれ、何をお応えしたのか何も覚えていません。でも帰りに、ドン・ボスコとマリア様の御絵を頂き、私に「今度来る時はお母さんと一緒にいらっしゃい。」と言われました。不思議なことに、同伴してくださった女性の方と駅でお別れして以来一度もお会いすることはありませんでした。 私の心の中に「お母さんと一緒にいらっしゃい」とのお声は何か命令のようにも思われ、2日後、母と二人で修道院を訪問しました。 この時シスターモニカとおつしゃる方が、施設を隈無く案内して下さいました。 何と、赤ちゃんから中学生まで300名ほどの戦災による孤児の状態を知り、銀座の少女孤児も思い出し、どうしても私は、この子共達の為に何かしなければならないという強い感動と勇気が湧き上がり、翌日から通いでボランティアをさせて頂きました。ここに私と同年配くらいの女性が10数名いらして、毎日の重労働にも関わらず元気一杯で明るく親切で、新米の私に優しく同伴してくださり十日も経たないうちに、毎日通うのは大変だから「泊まったら?」と勧められ、何処でどなたが許可を出されたのか知りませんが「どうぞ」と言われ、早速両親の許可を得て翌日またまた母と共に院長様にお会いして、正式にアスピランテとなりました。
1948年の4月10日「師団坂」の土手の桜が満開で長閑な春の日でした。こうして私の修道召命の正式第一歩が始まりました。私にとって此処までの道のりで何ひとつ思い悩むことなく、全く神様のみ手に導かれるままに歩んで来たように思われます。そして自ずと次の「詩編」を唱えざるを得ません。
 詩編 90 神の摂いは限りなく、生涯私はその中に生きる。
139 神よあなたは、わたしを心にかけ、私の全てを知っておられる。私が座るのも立つのも知り、遠くから私の思いを見通される。
歩む時も、休む時も見守り、私の行いをすべて知っておられる。くちびるに言葉がのぼる前に、神よ、あなたは全てを知っておられる。

 (注) 銀座教会のチャプレン チベサー神父様(メリノール会)

すでに故人となられましたが、私の信仰・修道生活の召命に常に同伴してくださり、着衣式初誓願式にもご臨席下さいました。私の霊的大恩人です。
三河島教会の不思議な外国人:この方は、なんとサレジオ会司祭 イタリアの方 ROSSI Franco 神父様でした。1983年帰天なさいました。
ここまでの道のりに、多くの方々と出会い、快く同伴してくださいました全ての方々に改めて感謝し深くお礼を申し上げたいと思います。

●趣味・楽しみ
趣味・楽しみにゆったり浸る時間など殆どありませんが、子どもの時から文学研究・文学散歩など を楽しみましたから今でも出来れば「古典文学」の読書とか、大自然の風景を満喫したいと思います。古代の日本人の繊細な感性と、豊かな情緒に共鳴するところが沢山ありますので・・・

●召命の危機
修練期1年目の1月4日、父が倒れそのまま帰天し、2年目の1月21日真白な雪に覆われた日 聖女アグネスの祝日に介護の甲斐なく、母も (皇后マチルディス) の霊名を頂き安らかに帰天しました。
この試練・この深い悲しみは、私の人生の初めての体験でした。兄・姉の励ましと、修練長様の温 かいご配慮により徐々にこの最大の危機を乗り越えることができました。勿論イエズスさま・マリア 様からの慰めも沢山いただきました。

●修道女となってよかったと思うこと
修道会創立者の聖ヨハネ・ボスコと 共創立者の聖マリア・マザレロのカリスマに従って、青少年教 育に学校という使命の場で40数年、青少年との関わりの中で学問と共に福音宣教をする事が出来たこと。また、カトリックにあまり関係のなかった家族・親族が子どもたちをミッション・スクールの 教育を高く評価し入学させるとか、結婚講座を受け教会で挙式する等カトリックに関心を持つように なったこと。 修道者として祈りの時間が確保されていること。これは素晴らしい恵みだと感謝しています。祈り たくても、祈る空間も時間もとれない方々のためにも祈りたいと思います。
毎年の大黙想会・サレジオ会総会長・FMAの総長からの諸文書を通して全世界の動きと同時に、沢山の霊的指針と勧めを頂き個人としても揺らぐことなく、心の平穏の中に日々奉献生活の歩みを続けられことの幸せに感謝しています。

●召命を考えている人に一言
召命の道は皆、一人一人神様が違った方法でお呼びになるのだと思います。ですから神様は、この 一人一人に愛のまなざしをもって絶えず勧めを与えてくださるのです。このお勧めを注意深く聞き、 ためらうことなく勇気と喜びと希望を持って素直に従いましょう。でも神様のみ声は、いつもあなた に直接とは限りません。多くの場合他者を通して、または、出来事を通してお示しになります。賢明 さも大切ですが謙虚な祈りによって、神様のみ旨を識別できますように。

<完>