召命を生きるトップ  <  N0.1 金子賢之介神父 「独りで百歩するなかれ、百人で一歩せよ」2

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●召命のきっかけとは 波

  私はもしかしたら修行者のように、どこかへ行って袈裟をつけて「波阿弥陀仏」と言っていたかも知れませんでした。父は、小さいときから近所を歩き回っているの私をみて、どうにもならない子どもだと思ったのでしょう。だから父は、私に少しはまともな人間になって欲しいと思い、中津の寺町にある「松巌寺」(しょうがんじ)という小さな寺に私を預けたのです。その寺には、子どもがいませんでした。 だから、父の考えは、私が寺に残り寺を継ぐかもしれない、と思っていたのです。そうすれば少しはまじめになるかも知れないと思っていたのでしょうね。そのお寺に行った時も朝早く起きて木魚をたたき、本堂に行って 「波阿弥陀仏」とお経を唱えて、終わったら学校に行く振りをして、中津の町をうろうろと歩いたのです。だから、お寺にも長くいませんでした。
父はこれではしようがないと言って、なぜ彼が中津のカトリック教会を知っていたかは知りませんが、私を中津のドン・ボスコ学園に入れたのです。その時は小学生でしたから、そこを卒業後、宮崎の小神学校に送られました。ただし、小神学校ではなくて炊事場です。修道院には吉田という先輩の神学生がいました。ある日「金子、お前な、神学校に入って勉強をしたくないか」と彼が言いました。私は、「勉強はしたいです。国語とか、歌うことは好きです」と答えました。すると彼は、「それでは、私が神父様に推薦してあげるから」と言ってくれました。その時私は、「数学がありますか」と聞いたのです。 彼は、「あるさ、数学をしなければだめだ」と言ったので、私は「では神父になりません」と言いました。 「なぜだ」と聞かれたので、「私は、数字とか、数学が嫌いです」と答えました。そうしたら彼は 「神父には数学はいらない」と答えてくれました。それで、神学校に1年生の3学期に入りました。宮崎で4年生まで神学校にいた後、5年生からは東京のサレジオ会に行きました。神学校の横には、育英工業学校があり、そこに通っていました。まだ、戦争中だったので大本営から陸軍中尉の馬場中尉という人が毎日来て教練を教えていました。他の先輩の神学生は皆戦争に行ってしまったのですが、私は、戦争には行かずにすみました。 その後、神学校に入って勉強をして神父になったのです。
神父になる一か月前に恐ろしい体験をしました。私は、脅迫的で私の胸を押さえるような苦しい夢を見ました。毎晩虹の七色が燃え私を苦しめに来ました。神父になるまで一ヶ月見ました。私は神父になるのを辞めようかと思い、チマッチ神父様に相談をしようかと思いました。不思議なことに、私が叙階を受ける1953年5月13日の朝は
、霧が晴れるように気持ちがスーッと落ち着いて、恐ろしい夢を見なくなりました。私は、チマッチ神父様のところに挨拶に行き、大神学校で叙階を受けたのです。これは、私が神父になる前のエピソードであり、これまであまり人には話したことはありません。

●私を変えた言葉

神父になって最初に松巌寺の住職に「やっと、神父になりました。ありがとうございました」と挨拶に行きました。 住職は「おまえ、神父になったのか。良かったな。一晩泊まれ」と言われたのです。私は一晩泊まって、ごちそうして頂き、いろいろな話を伺って、東京に帰ろうとしたのです。翌日東京に戻る私に禅宗だった住職は、私に、「禅宗のモットーのような偈(げ)といものがある。その偈をあなたにあげるからよく聞きなさい。『人生 独歩 独来である。』これを覚えておきなさい」と言われました。これは、一人で生きなさいとか、人の世話になるなとか、人に頼るなとかいう意味です。きっと、住職は、私を見て人を頼るような子と見えていたのかもしれません。私は、「ありがとうございます」と言って10年間そのように生きてきたのです。
10年間そのように生きてきたのですが、失敗しましたね。私は「人生 独歩 独来でやるぞ。やるぞ。」と、
人を馬鹿にしたり、人に頼らないようにしたりしていましたら、私と親しくしていた人がだんだん消えていき居なくなってしまいました。それである時、偶然つけたラジオから、「一人で百歩するなかれ、百人で一歩せよ」という言葉が流れてきたのです。私は悩んでいたときですから、「ハッ」として「これは何だ」と思いました。「一人で百歩するなかれ」は「人生 独歩 独来」を指摘していますね。次の、「百人で一歩せよ」という生き方に切り替えていかなければ人は私に寄り付かない、と思ったのが、今の私の生活の始まりとなったのです。今でもこの言葉は天来の声だなと思って大事にしています。もちろん、「人生 独歩 独来」のように自分に対する責任を意識するというものは大切です。だけど、それだけで人間が歩いていると独りよがりになる恐れがあります。だから、ここは、注意しないといけないという私の感じですね。
  最近は、いろいろな方々と関わりを持つということ、一緒にやるということは大事だなと感じています。しかし時には、独りよがりになって、人を突っぱねたことも何度かありました。基本的には、「人生 独歩 独来」ではなく、「一人で百歩するなかれ、百人で一歩せよ」というように大勢の人で「一歩、一歩、一歩」進むことが大切であるということに気を付けています。考えてみれば、私は、いろいろな方々から影響を受けています。私は自分一人の力で今のようになっているとは思いませんし、自分一人だと欠点ばかりで、まだまだおかしいところがたくさんあると思っています。それは、私の『風歩ノート』に書いてあるので読めば分かります。
私は、部屋の洗面台に「申命記の34章」のモーゼが亡くなったときの事を書き写し貼っています。「モーセは120歳まで生きていた。彼は目さわやかに、死ぬときまで気力に満ちていた」(申命記34・7)と書いてあります。これは、すごい言葉です。「彼は目さわやかに、死ぬときまで気力に満ちていた」と。この二つを私は欲しいですね。目がいつか良くなってくれればいいなと思っています。これは、いつになるか分かりません。失明が近いのではないかと思うくらいに目がよくありません。
  「気力」という点では、「野良犬」でしょう。ですから、気力という点では、野良犬的なものがありますから、歩く力、歩きたいという気持ちはあります。私は、修道院の階段を屋上まで行ったり来たりすること、駅の階段の手すりを使わずに歩いて降りること、そういうことは全部自分一人でやっています。だから、気力はまだあると思います。その点では、「まだ、若いものには負けないぞ」という気力はありますね。ですが、去年は今までの中で悪かったですね。気力が無くなったとは感じませんが、なんとなく力が無く小食になった感じですね。だから、修道院の食堂で私が食べるのは、ほんの僅かなのです。

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