召命を生きるトップ  < -No.6 国井健宏神父 「叙階50周年を迎えて」_2

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国井・・・ よく言われるのは、ユニフォーミティ(画一性)という、どこを切っても同じような“金太郎飴”ということではなくて、典礼は、同じキリスト教でも、アフリカでは踊ることで表すことができるし、他の所ではそれぞれの表現があってもいいと思うのです。
南アメリカで長く働いておられるサレジオ会の倉橋神父様が、「ボリビアの典礼は楽しいですよ。『グロリア』(栄光の賛歌)でもテンポよく手拍子をとって、皆で賛美するのです。日本に帰って来ると、とても厳粛で、まるでお棺を担いで入堂する雰囲気です。」と言われていました。やはり、文化の違いがあります。日本人には、日本人にあった喜びの表現が当然あってしかるべきです。ですから、ローマと同じことをしなさいということが、カトリックなのではないと思います。違う形があってそれでも一つになることができるという、それが本当のカトリックというのではないでしょうか。多様性の中の一致ですね。

大山・・・ 多様性というのはいくらあってもいいというわけですね。一つにまとまっていくのはいいことですね。それは、ある意味で典礼の豊かさでもあるわけですね。

国井・・・ 確かにそう言った面から見ると、神学校は、司祭の養成をしていますが、もう少し典礼の表現を考えていかなければならないと思います。司祭は、もっと典礼を大切にして、共同体に感じさせていくこと、恵みを受ける人たちが力を得て生きられるようにリードしていくことが大切ですね。典礼の目的というのは、具体的に生きる恵みにあずかることだと思います。
ミサ典礼書で書かれたとおりにミサをやっても、そこの共同体にどのような人が集まっているのか、神学生なのか、お年寄りが多いのか、都会の教会か地方の教会か、会社員なのか、青年が多いのかと、そのような共同体の性格によって表し方はそれぞれ違うはずですよね。その人たちにもっと適応の幅と言うか、自由な幅を持つ、そう言う意味で創造性を持つことが欲しいですね。
典礼をどのようにして共同体に適応するかを考えていかなければいけませんね。ある人が言っていました。典礼を司式する司牧者は、町医者のようなものです。医者は、「風邪はこのようなものだ、だからこのような症状には、この薬を与える。」と勉強をします。しかし、実際には風邪そのものを持っている病人はいません。症状は、お年寄りと若い人は違います、腎臓を患っている人かも知れません、心臓が弱い人かもしれません。確かに、風邪を引いていますが、相手がどのような状況の方かということを見て適応しなければ、うまく患者を診ることができません。
司牧者というのはそのようなものだと思うのです。ローマ典礼の基本形はありますが、それを具体的に目の前に集まっている共同体の中でどのように行うか、どう表現していくかということに適応させることが大切なのです。


 心から分かち合える仲間を

大山・・・ 話しは変わりますが、今までの50年を過ごしてきた中で、召命の危機というものが何度かあったのではないでしょうか。それらの危機をこのような形で乗り越えて来たということがございましたら、お伺いしたいのですが。

国井・・・ 私は召命の危機ということは体験したことがないと思います。ただ、他の人が神父を辞めたということの、悲しさやショック、まるで世の中の色がいっぺんに変わってしまうような感じを受けました。しかし自分が神父を辞めるべきか、続けるべきか、そういうことは考えたことはありません。

大山・・・ 今の若い神父様で、叙階を受けて間もなく辞められるという悲しい現実もあります。神父様から彼らへの何かの助言がありますか。

国井・・・ やはり、私はいちばん大切なものは仲間ではないかと思うのです。アメリカの神学生時代の夏休みは、森や池がある大きな神学校で、哲学科と神学科の神学生がみんなで一緒に過ごしていました。その時の上級生のグループを見ていて本当にすごい人たちだと感心しました。私もあのような神学生になりたい、と思うような身近なモデルというものがありました。若い人にとってそのような身近なモデルがあることは、とても大きな励みになると思うのです。
以前の神学校には、そのような雰囲気があったのではないでしょうか。上級生がいて、厳しいことも言われたことがあったかもしれません。しかし、私たちも後、何年かしたらあのようになるのだとか、若い神父様を見て、子供たちの所とか、お年寄りの所へ行けるのだとか、そのような身近なモデルというものが必要ですね。そして、召命の危機がある時に相談ができる友達、仲間がいるというのは素晴らしいと思います。

大山・・・ インターネット社会になって来ていますので、人間関係が希薄になって来ているという感じではないでしょうか。それと、家族の問題も出てきているかもしれませんね。親子の関係が稀薄になって来ている。そうすると、自分の心の奥底を開くことができないという、遊び友達はいるかもしれませんが、もしかしたら、心の奥深くに行くことが難しいのかもしれません。神父様が言われるように、何かあると、すぐに集まって話せる仲間が必要なのかも知れません。

国井・・・ それがなかったら、司祭生活を守ることができないと思うのです。聖書にも「人は、一人でいるのは良くない。」と言われています。だからといって、司祭が結婚しなさいというのではありません。独身であっても仲間がいて、それで、何かが起こったら心配してくれる。同時に、私も他の仲間のことを考えるというようなことが大切です。
私は神学生時代をアメリカで過ごしたのですが、そこでの同級生は本当に素晴らしい人たちでした。もちろん、今でも彼らとの付き合いが続いています。もし私が一年上のクラスか、もしくは、下のクラスに入っていたら、今まで司祭として続けていなかったかもしれません。同級生のありがたさというのが今になってわかります。あの時は、なんて恵まれていたことだろうと感じます。だから、同級生で集まることができると嬉しいですね。
当時は、第二バチカン公会議前の養成期間ですから、ものすごく厳しかったけれど、逆に楽しいこともたくさんありました。いろいろなことを一緒に分かち合った仲間が大事です。そう言うことを今の若い神学生や司祭たちが体験してくれたらと思います。たとえば、司祭が神学生と一緒に被災地に手伝いにいく、そして、苦しんでいる人たちの体験を分かち合うことできたら、信仰体験の助けとなるのではないでしょうか。  

  良い典礼のために良い準備を

大山・・・ 司祭が司祭らしさを保っていくために、典礼の持つ意義があるのだと、いうことがあるでしょか。

国井・・・ 司祭だけではなく信徒も含めて、いい典礼をするためには、いい準備が必要なのです。たとえば、音楽家がコンサートをする、劇団員が劇をするために、ものすごい練習をします。練習をしないといいコンサートも劇もできません。それは典礼も同じです。たとえば、聖週間などで特別な典礼をするためにもいい準備が必要です。司祭は、共同体のリーダーとして、共同体がどのような準備をするか、いい準備ができるような段取りとかシステムを考えないといけないし、司祭自身がいい説教をしなければいけません。

大山・・・ 司祭は、その中でいろいろな段取りをし、同時に信者さんも協力していき、参加していくことですね。そのようにしないといい典礼にならないということですね。もちろん、司祭自身もよく準備をしていかないといけないのですね。特に、説教ということですね。説教の準備となると黙想もしっかりしなければならないということになりますね。

国井・・・ その点では、プロテスタントの牧師さんたちはすごいと思いますね。 教会の掲示板には、次の日曜日の説教のテーマを出して、それで毎日曜日30分も1時間もしっかりと説教をなさるのです。大変な準備が必要だと思います。説教は神の言葉の延長ですから、大切にしなければいけないのです。ですから、司祭は、共同体の準備と、司式者としての準備、説教者としての準備がすごく大切だと思います。

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