傍に立つこと
キリスト者として日本に生きる
 
 
 

信仰年
  教皇ベネディクト16世は「第二バチカン公会議」開幕50周年と『カトリック教会のカテキズム』発布20周年を記念し、2012年10月11日から2013年11月24日(王であるキリストの祭日)までを「信仰年」として定め、「唯一の救い主である主に心を向け」人間の思考と感情、思いと行いの全てが清められ、その全存在が新しい命に造り変えられることを求めている。そして「愛の実践を伴う信仰」(ガラテヤ5.6)が人間の認識と行動の基準となり、人間生活の全体が変えられることを求めている。(自発教令『信仰の門』4-6)
  神離れ、若者の教会離れが進む中で「信仰年」が定められ、「信仰」について見つめ直すことは誠に時宜に適ったことである。現代は実証科学的に物事を見ることになれ、物の世界を越えた、あるいは包み込む三位一体の神の存在を信じ、その神への関わりから力を受けて生きようとする生き方は片隅に追いやられている。

21世紀の教会が私たちに委ねられている
  しかし「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16.15)という使徒たちに向けられたキリストの言葉は、今、21世紀に生きる私たちに、向けられている。もしこの言葉を受け入れそれを具体化する人たちがいないなら、神の教えは、今の時代に伝わらないし、神の生きた恵みがこの世界に現実化されることもない。21世紀初頭の教会は、実に今、私たちに託されている。特に使徒の後継者である司教とその協力者である司祭たちには、その大いなる使命が委ねられている。

キリストによる招きと応え
  「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう。」(マタイ4.19)とイエスは湖で網を打っている二人の漁師に呼びかけられた。「二人はすぐに網をすてて従った。」(20)「網を捨てる」とは生活の糧を得る手段を捨てることであり、イエスに全面的に命を預けること、すべてをイエスに賭けることである。しかも「すぐに」である。イエスに従うことは、これほどの強い決断と覚悟、即時性が要される行為である。この数節の内にいとも簡単に表現されているイエスによる招きの場面は、その単純明快さとは裏腹に「命がけ」の重さと人間がキリストの招きに応える時になし得る「魅力」とでもいうべきものを感じさせてくれる。すなわち召命に応える魅力は「他者のため」になされる「命がけの覚悟」と「強い決断」そして「即時性」にあるように思う。
  しかし「全てを捨て従う」ことは、通常、即時的にできることではない。長い準備の中で次第に整えられて行くのが普通である。「すぐに従う」ほどまでに、心が整えられていくことが必要であり、心が整えられたその時が、イエスとの決定的な出会いの時となり、すべてを即時的「捨てて従う」時となるのではないだろうか。

キリストとの関わり
  今、この時代を生きる私たちにとって、イエスに聴き、イエスに従うことは、自分が尊敬する先生に教えを請い彼にならい従うこととは質が異なる。後者の場合は、先生への信頼関係による子弟関係であるとはいえ、先生と私は完全に異なる別の存在であり、思いや考え、生き方を真似ながら近づくだけである。しかしイエスとの関係となると、私とキリストが一つとなる関係である。キリストが私と「共にいる」(マタイ1.23)関係である。時空を越えて、キリストが私と共に現存し、私はキリストの霊に生かされ、キリストは私を通して、御自分をこの時代、この世界に現すのである。このような関係は単なる人間相互の関係ではなく、宗教的次元での関わりであり、信仰による関わりである。つまりキリストに対する深い信仰によって、キリストとの関わりを強め、キリストに「即時的に」「すべてを捨てて従う」ことが可能となる。
  このように考えると「信仰」こそがキリストの招きに応える力であり、信仰がなければキリストによる招きに応えることはあり得ない。それゆえ「信仰」の有益性、重要性について考えることは、キリストの招きに従う力をえるために必要なことである。実にキリストへの「信仰」がキリスからの招きである「召命」を具体化し支えるのである。

信仰とは
  それでは「信仰」とは何か。「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」(ヘブライ11.1)である。すなわち端的に言えば「見えない神との関わる力」であり、その「感じることも、見ることも出来ない神から今を生きる力を汲む力」である。

神は存在するか
  私たちは神を肉眼で見ることも体で感じることも出来ない。だからある人々は「神は苦しみと死に向き合う人間が、その苦と死を越えるために、創り出すイメージであり妄想である」という。このような考えは実証経験の視野に立つとき十分に説得力を持つ。しかし人間の精神はただ単に生・有限・苦・死の恐れから逃避するため、必然的存在者を要請的に造りだしたのだろうか。むしろ今を生きることへの喜びと感謝の心が、人を神にまで至らせたのではないだろうか。今を生きている実感、生かされることへの感謝の心が、この私という小さな存在を支える「永遠の神」と呼ばれている力に精神を開かせ、畏敬の念を持たせるのではないだろうか。このように見るなら、神は「存在するか否か」の問題というより、今、ここに私が「生きている」という事実の内奥に、「生かされている」という一面を認めるか否かにかかっているといえよう。それを認める人は神を信じればよいし、私は「自分の力で生きている」というのであれば、神を認める必要はない。神の存在を認めるか認めないかはその人の問題である。神を認めることが自分を、そして他人を幸せにするなら、神信仰を持つことは良いことだし、神を信じることが、自分をあるいは他人を不幸せにするなら信じない方がよいだろう。

心の内奥における神との出会
  見えない神を信じることは容易にできるものではない。主体的に自由に生きる人は、自分の外に自分を展開させる。外の世界との関わりの中で外を取り込むことで生きる。外との関わりは際限がなく止まることがない。関わりの停止は死を意味する。問題は外との関わりにどれだけ心を割くかである。神を認める人も、生きる限り外との関わりは絶えず行われるが、その外との関わりにあっても、自分の心の内奥に意識を向け、そこに自分を超える次元を見るのである。アウグスチヌスは『告白録』第10巻27章で「御身を愛することのあまりにおそかりし、御身は内にありしに、われ外にあり」と言う。すなわち神を外に求めていたが、実は私の中にいた。それに気づくのが遅かったということである。神への人間の精神の飛翔は、自分の心の内奥に深まるところでなされる。自分の存在とその存在の根源が実感されるのは心の内奥においてである。言い換えればこの心の内奥で神と人の出会いが実感されるのである。

宣教とは「信仰」を養成すること
  心の内奥における「神との出会い」が深まるほど、キリストの招きに応える力が増していく。キリストの招きは種々な形で種々な人々になされる。司祭召命、修道者の召命のみならず、すべてのキリスト者が何らかの形でキリストの招きを受けている。このキリストの招きは、今、この世界にあって、今そこに居るキリスト者を通して現実的に具体的になされていく。「すべての造られたものに福音を宣へ伝えなさい。信じて洗礼をうけるものは救われる。」(マルコ16.15-16)キリストの宣教への招きは、人々を「信じる」ことへ招くためである。つまりまだ神を知らない人、今、神を受け入れない人々が、神への「信仰」を持てるように支え導けということである。見ることも感じることもできない神と関わりを持ち、その関わりから今を生きる力を汲めるものとなるように、人々を支え導くことこそ宣教なのである。この宣教はキリストに招きに応え、その招きに喜びと感謝をもつことなしにはできない。キリストに招かれ、信仰を育み、信仰の喜びを持った人々が宣教を行なうものとなる。しかし福音宣教は、人が行うというより、キリストへの信仰に生きる人を通して、キリスト自身が行う神の恵みの伝播である。
  このようにキリストの招きへの応答は「信仰」の深まりに応じて堅固となる。堅固な深い信仰を持つ人はキリストから宣教の使命に招かれるが、キリストはその人を通して、他の人々を信仰に招くのである。信仰はキリストへの召命を生み、強め、キリストからの召命に生きる人は、神を知らない人たちの心に信仰の種を蒔き、育てるのである。