傍に立つこと
キリスト者として日本に生きる

  前教皇ベネディクト16世は自発教令「信仰の門」の中で「人が信仰に入る最初の行為は神のたまものであり、恵みのわざです。恵みは人間の深いところで働き、人を造り変えるからです。」と述べている。本当にその通りだと実感する。信仰は神の恵みのたまものでしかないとあらためて思う。

  自分の信仰の原点を振り返ってみると、イエス・キリストとの出会いの体験に辿り着く。それは自分としては全く予期していなかったことで、ある日ある時の、まさに恵みの出会いであった。その時から、生活の中に神が介入するようになった…というか、生活の中で神の存在を見出すようになり、神の言葉を聴きたくて聖書を頻繁に開くようになった。神は確かに現存され、こんなにも生き生きと、細やかな心遣いをもって私たちに関わってくださっているということが、疑いの余地なく分かってきた。そのうちに、神が私をこの世に送り出す時に抱いた「私の道」を探して生きたいと思うようになった。神の恵みは私の深いところで働き、私は内側からすっかり変えられた。そして、私の生き方はそれまでとはすっかり変わり、今に至っている。

 

「神がお遣わしになった者を信じること、それが神のわざである。」と福音記者聖ヨハネは言っている。この言葉から私は、洗礼式の時に「信じます」と宣言したことを思い起こす。その時それが具体的にどういう意味をもっているのか、どういう道を歩むことになるのか、それほど深く理解していなかったと思う。

  でも、「天地の創造主、全能の神である父を信じます。」「父のひとり子、乙女マリアから生まれ苦しみを受けて葬られ、死者のうちから復活して父の右の座についておられる主イエス・キリストを信じます。」「聖霊を信じ聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、体の復活、永遠の命を信じます。」と教会共同体の前で宣言したことが、おそらく私のこれまでの歩みを支えてきたのだと思う。また、信仰宣言を唱えるたびに自分の信仰を確認させられ、日々の様々な場面で「信じる」ことを学ばされてきたが、そうやって信仰は成長し強められていくのだと思う。いつも主が私の「信じます。」を受け止め、支えてくださっていることに感謝すると同時に、それを言わせてくださる神の恵みに感謝せずにはいられない。これからもずっと「主よ、私はあなたを信じます。」  <完>