2番目はカトリックの信者である若者が社会に出た時、宗教的心情とのギャップを埋める相談者が是非必要であるという事です。実際に私が洗礼を受け、ビジネス社会に出て、多くの矛盾や疑問を感じました。会社という組織の持つ反カトリック的な習慣を目の当たりにして、とても戸惑った事がありました。 最近でもデパートやレストランの産地偽装事件が起きています。その組織にカトリックの青年が関わっていたら、彼はとても戸惑っていたはずです。宗教的良心と会社の命令との狭間で・・・ 現在はコンプライアンスが各社で盛んに叫ばれていながら、この始末です。私が社会人1年生であった40年前はもっと矛盾に満ちていました。これらの悩みを受け入れるキリスト者が是非必要であると思います。
一方では、この時期は自分の生き方に迷う年頃であり、事によって召命のチャンスでもあると思います。事実私も、三軒茶屋教会の神父様から誘いを受け、心を引かれた事があります。この時適切に導いてくださる神父様がこの召命の少なくなっている現代に是非必要であると感じています。
最後に日本人の宗教観についてです。私は教会で結婚式の写真を時々撮りますが、結婚関係の情報誌「ゼクシー」に聞いた所、キリスト教式の結婚式を望むカップルが全体の半分以上おられるそうです。キリスト教はプロテスタントを含めても日本の人口の1%程度です。勿論司式する方が、本物の牧師や神父かどうかはわかりませんが、少なくとも生涯の伴侶を決める決意を、キリストの名によって誓っている人が半数いるという事実は本当に驚きです。私たち日本人は、比較的多神教的な側面を子どものころから生活伝統として持っています。例えば教会の新年深夜ミサに与ってから、その足で比較的近距離にある明治神宮へ初詣に行く教会の若者を良く見ます。又私が学生時代、遠藤周作の「沈黙」を読んでディスカッションをした事がありますが、主人公のフェレイラが転ぶシーンについて、出席者の一人、香港出身のイギリス人神父様は「私はこの沈黙という小説が嫌いだ」とおっしゃいました。「キリスト教は他人との関係の中で信じるのではなく、神と自分との間の信仰であり、他人の為に踏絵を踏むというのは間違いだ。」とも言われました。そこである日本人の神父様にこの事が話すと、その神父様は「沈黙に出て来るフェレイラの行動はキリストが日本人にのみ伝えたメッセージだ」とおっしゃいました。私も日本人です。やはり考え方として日本人の神父様に同感しました。日本人は他の宗教に対してあまり排他性がありません。これは宗教戦争を繰り返してきた欧米諸国との大きな違いです。しかし私はキリスト者です。自分の精神の拠り所、良心の規範はカトリック的であり続けたいと深く思っています。
これで3つの話を終わります。これらのエピソードが、皆様のカトリック信仰生活において、少しでもお役に立てれば、神に感謝いたします。又もっと詳しい話をご希望でしたら、召命チームの会合にいらして下さい。
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