月日は過ぎて行き、今朝、顕示された聖体のイエスの前で、いつものように当番のシスターによって表明された、一日の祈りと生活の奉献の意向の後に、そっと、しかし必死の思いを込めて「師イエスよ、もう限界です。【召命の母】としてあなたが与えてくださった聖母が、わたしに手伝ってくださるようにおねがいしてください。」と付け加えたのでした。
黙想に入って暫くして、あの恵みの出来事が脳裏をかすめました。(それはちょうど20年前のことです。)わたしのすべてを知り、ささやかな言葉にも耳を傾けてくださっている方の現存を体感した、あの日のことが・・・。
1993年に初めて長崎の共同体に派遣されて、約1カ月を経たある日、シスター達と5人でドライブをした日のことです。途中、ドライバーから「まだ〇〇修道院へ行ったことないでしょう。その下を通るので教えてあげますね。」と言われました。
わたしにとっては、未洗者であった高校時代に、聖母との繋がりの原点となった場所であり、訪問したい修道院でした。車が、ほぼ真下に近づいた時、ふと思いついたのです。
「マリア様に挨拶をしよう」と。そして、ドライバーの後部座席から白い修道院を見上げつつ「無原罪のマリア様、日本におけるあなたの聖地とも言うべきこの長崎にわたしをお招きくださったことを感謝致します。本当は、そちらにお伺いして挨拶したいのですが、今日は出来ませんので、車中から失礼させていただきます。」と心の中でつぶやいたのでした。その途端(どう表現していいのかわかりませんが)永久に味わっていたい願望のうちに、耐えがたいほどの至福の抱擁?の恵みをいただいたのでした。豊かにあふれ出る涙が、それを緩和してくれているように思われました。 その中で、わたしの罪はすべて赦されていること、神が、このようなわたしを受け入れてくださっていることがひしひしと感じられ、深い安らぎの中に、ただただ、わたし如き者に、これほどの恵みをくださることに申し訳なく「ごめんなさい。ごめんなさい」と繰り返していました。
しかし、それとは裏腹に、わたしの心はこうも叫んでいました。「今、わたしにもわかりました。御胎内のイエスと共に、あなたが聖エリザベトを訪問なさった時の、あのヨハネの喜びが!」と。
暫くして、「あら、どうかしたの?」と聞かれ、とっさに思ったのです。(このことは、わたしの心の内に秘めておこう)と。 |