TOPページ  >大山神父の「カトリック司祭の養成」 キリストの代理者としてのキリスト      
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  司祭はキリストと深く一致している人であり、今、ここで自分の姿を通して、キリストを現存させる人である。そのことについて、教会の文書は次のように述べている。

  「司祭は『かしら』であるキリストの代理者として行動できるように、司祭キリストの姿に似たものとなる。」(『司祭の役務と生活に関する教令』2)

  「司祭はゆだねられた群れの中でキリストのように生き、自らをあたかもキリストを映し出すほどに透明な鏡とすることで、唯一最高の牧者キリストを現存させるように選ばれている。」(『現代の司祭養成』15)

  「司祭のアイデンティティは、キリストの祭司職に独自の方法で与ることからくる。この参与によって、叙階された司祭は、教会の中で、教会のために、司祭キリストを実際に活き活きと映し、『頭であり牧者であるイエス・キリストを秘跡的に示す』者となる。」(『司祭の役務と生活に関する指針』2)

  司祭はキリストの教えに日々、具体的に生きる人である。すなわちキリストが人々を愛したその同じ愛に生きることによって、キリストの愛を「この時代」、そして「そこに」現存させる人である。キリストは病人に触れて癒し、悪霊に憑かれた人を、その悪霊から解放し、罪の中にあった人の罪を赦し、その罪の束縛から回心させ、人をその本来の姿-神の似姿に戻した。キリストは小さい子供から高齢者まで、無学な人たちから博学な人たちまで、貧しい人から豊かな人まで、あらゆる人と関わり神の恵みを分かち与えたのである。それはまさにパウロの「全てに対して全てとなった」(1コリント9.22)姿の原型である。

  救いとは人が神のいのちに与ること、すなわち人が神の恵みに満たされ、神のいのちに生きるものとなることである。人と神の間には無限と有限、創造者と被造者、永遠と時間の違いと越えがたい隔たりがある。キリストはこの隔たりをなくし、人が神と関わる道(ヨハネ14.6)となった。神との無限の隔たりがキリストによって埋められ、救いが成就したのである。

  そしてキリストのこの偉業を時を越えて引き継ぎ、その時に具体化し続けていくのが司祭たちである。司祭たちは永遠であるキリストとキリストの人類への愛の働きを、時代から時代へと引き継ぎながら現存させるのである。

  従って、司祭は自分の存在そのものを通して、キリストを示し、人々にキリストを感じ取らせる者である。人々は司祭を通して、キリストの実像への近づきを始めるのである。聖書や教父、教会文書などに書かれたキリストについて、知的な情報を得られても、キリストを具体的に実感することは難しい。キリストを具体的に感じ取らせる役割は司祭たちに委ねられている。それゆえ司祭たちには大きな使命と責任がある。司祭は、人がその司祭を見るときに、その姿の中にキリストを感じ取れる程に、キリストと人格的に結ばれた者でなければならない。すなわちキリストが人々に示された具体的な愛に生き、人々に具体的に関わる中で、人々が安心とゆとりを得て、心のねじれを戻し、愛する力を回復し、素直にあるがままに生きることができるようになる。司祭はキリストと共に今、ここで具体的に関わるその人を生かし、人間の本来の姿をその人を回復させる者である。