TOPページ  >大山神父の「カトリック司祭の養成」 養成の場としての神学校      
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  神学院は司祭養成の場である。人間は時間と空間の中に生まれ、その時代、その人が存在する場で育ち、生活し、生涯を終えていく。人は場と時の中で成長する。場と時が人を形作るのである。場には種々の場がある。人はその場を区別しながら、生活している。仕事の場、休む場、運動の場、食事の場、学びの場、祈りの場など、種々の場を使いながら自分の身体と精神、そして心と魂を養っている。場は人に安心を与える。自分を受け入れ、休ませてくれる安心の場が無ければ、安定したゆとりある心をもつことは難しくなる。場は人の心に安心を与え、十分に持ち味を発揮するための土台となっている。

  また人は時と共に生きている。時が成長の種々の時期を与える。ある時に物事を始め、ある時にそれを終え、別の行為へと移る。人は時の中で養成され、成長し、資格を獲得し、時の中で生きる人たちに奉仕するものとなる。
人は場と時の中で生きながら、その場と時を越えて行く存在である。生きるとは過去にもとづきながら今、未来に向けて自分を投げ込む行為のことである。人は今この空間にありながら、自分の思いを過去に未来に馳せる存在である。また宗教的視点からみれば、人間は今という時空を生きながら、常に永遠に思いを馳せ、永遠の存在である神との関わりの中で今の生を構築することのできる存在である。人は自分を成長させる時間と空間を強く自覚する必要がある。時間を有益に使い、また空間(場)に感謝し、磨き上げるほどの思い入れが必要である。

  さて、神学院は司祭養成のための場である。司祭養成の現場である神学院が担う時間性と空間性はとても大切である。この養成の場において、司祭志願者はキリストに似たものになっていくからである。人は一夜でキリストに似るもの、親しき人になれるわけではない。キリストは12使徒を「自分のそばに置き」(マルコ3.14)共に生活をしながら、時をかけて、親しみながら、命がけのみ言葉宣教者として育てた。そして今の時代、弟子を育てたキリストのこのやり方が、神学院という形で引き継がれている。

  神学院は「教育的な共同体である」。(現代の司祭養成60)そこに生活する神学生は、共同生活を通して、「頭であり牧者であるキリストにかたどられて、教会の中でそして世界の中で救いの宣教者」となるために養成されるのである。そのような宣教者となるためには、まず離脱が求められる。「今までの関わりからの離脱、自分の通常の仕事からの離脱、自分の最も近い、最も愛するものからの離脱」(60)である。そしてこの使徒的共同体の中で、「イエスの言葉に耳を傾け、過越の神秘を体験し、深い兄弟愛を実践し、宣教のための聖霊の賜物を待ち望む」生活をおくりながら、「喜びの内に生きる真の家族となる」。すなわちその共同体に生きるメンバーは、自分たちから「キリストの霊と教会への愛が輝き」出て、自分が生きている時代の人々と共に歩める者となるのである。

  この教育共同体は、統一の取れた生活指針と養成理念に基づいて、キリストの似姿に生きる真のキリストの宣教者が養成されなければならない。そこに生きる養成者も神学生も、同じキリストに学び、キリストに生きる者として、共に同じキリストの方を向いて、今の時代に求められる真のキリスト像をもとめて、霊的歩みを共にするのである。