TOPページ  >大山神父の「カトリック司祭の養成」 霊的養成      
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●「全てに対して全てとなるために」 1

  司祭はキリストを今、この時代に、ここに具体的に現存させる存在である。それゆえに司祭はキリストの代理者(教会憲章28)といわれるし、キリストを映し出す鏡(『現代の司祭養成』15)ともいわれる。21世紀に生きる人々は、見えない神の恵みを具体的に生き、示し、感じ取らせ、教えてくれる誰かがいないと、神の存在を知り、その恵みに触れ生かされるあり方を知ることもできない。司祭はその任を大いに負う存在である。

  司祭を見たり、司祭と話し、司祭に相談し、聴き、司祭に関わる人が、目の前のその司祭の姿、言葉、行為の中にキリスト自身を感じるほどまでに、司祭はイエス・キリストとの親密な関わりに生きる存在である。キリストとの親密な関わりに生きるとき司祭は、キリストと同じように、「全ての人に対して全てとなる」(1コリント9.22)ことができる。司祭は自分が関わる人の心を癒し、その人が神の似像としての人間の本来の力を回復できるように支える。すなわち司祭はその人自らがキリストと関わり、キリストから直接に力を受けて生き、霊的に自立した存在になることができるよう導くのである。

  司祭が全ての人の友となれるのは、キリストとの親密な関わりを深めることによってである。そしてそれは日常の霊的養成の充実を通してなされるものである。霊的養成とは超越的で憐れみふかい偉大な存在者(神)との関わりから「生きる力」を汲むことができるようになるための養成である。

  霊的養成の原理はイエスが最も重要な掟として律法学者に提示した「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』『隣人を自分のように愛しなさい。』」(マタイ12.28-31参照)という言葉にある。 ここに私たちは三つの愛を読み取る。一つは「神を愛する」「自分を愛する」「隣人を愛する」の三つである。

  この三つの愛が霊的養成の根幹となる。人は神を愛し、神から力を得ることで「生きる力」を得るし、神からの恵みがあるなら、自分のあるがままを認め受け入れ肯定できる。いわば自分を愛することができる。神からの恵みによって自分を大切にできるなら、必然的に隣人を愛することへと広がっていくのである。隣人愛は義務から生じるのではなく、愛の広がりの中で、人間の自然のあるべき姿である。

  人は神を愛することができるか。見えない超越者、人間を超えた神を愛することができるのか。愛は種々の形によって表明され得る。一つは神への賛美と礼拝、そして感謝などの祈りである。これは神を至上の存在として認め受け入れ、信頼する行為に他ならない。それは神への愛につながり、また神からの愛に基づく行為でもある。また神を愛する行為は、神の御旨に生きることによっても表明される。神の御心を具体的にすることは、最高に神を認め神と一致する行為である。神の御心は「子を見て信じる者がみな永遠の命を得ること」(ヨハネ6.40)に他ならない。それは人がキリストを通して神を知り、神の望みに生きること、すなわち「お互いに愛すること」(1ヨハネ4.11)ことである。神への愛は隣人愛と表裏であることが分かる。

  従って、人が神と関わるだけで、隣人愛の実践がなければ、それは独りよがりの信仰であり広がりを持たない。神に熱心に祈っても、それが具体的に実らないなら、この世界の中で生きる力とならないなら、祈る意味がどれだけあるだろうか。人の魂の救いは、自分一人が祈りによって神の存在に触れるだけでは不十分である。神の恵み、働きがその人を通して具体的に広がるときに、そこに神による救いの恵みは顕現するのではないか。たとえば具体的に何もできない重病人や高齢者であっても、かれらが行う祈りにともなう恵みは、彼らに関わる介護者などに具体的に広がっているのである。

  また人が神とは関係なく、自分の力だけで愛の実行をしても、長続きがしなかったり、自己中心の愛の実践に陥ることもある。実際、人は神からの力なしに他者に奉仕し、他人を愛していくことはできる。たとえば「人助けは人間として当然だから行うべきだ」という人もいるし、自分の名誉を得るため、他人からの称賛され良い評価を受けるため、自分の見栄のために愛の実践に励む人もいる。また好奇心を満たしたり、状況を分析し、種々の知識を獲得するため、現場に赴き人助けをする人もいる。さらには「今親切にしておけば、いつかは自分に返ってくる」の思いや、「自分がしてもらいたいことを人にする」という「お互いさま」の感覚で人に奉仕することもある。このように神とは関係なく、人を愛し人に奉仕することも出来るのである。

  しかしキリスト者の愛は、自分の益のために、自分の力だけでするものではない。キリスト者の愛は「敵を愛する」(マタイ5.44)愛である。自分が傷んででも、相手を大切にする愛である。それは理屈を超えて、ただ「~にも関わらず神は私を愛して下さる」からである。神はどんなことがあっても、私を愛して下さるから、私は無条件で相手を愛するのである。これがキリスト者の愛の源泉である。

  人が隣人を、しかも敵を愛せるものとなるためには、その人自身が永遠の相の中で神に愛され、神に肯定されていることを自覚する必要がある。自分が神に愛され肯定されていることが分かれば「自分を愛し」「自分を肯定する」ことができる。その時その人の愛はそとに広がっていくのである。

  人は何故、神を信じ、神に祈り、神からの恵みと力を願うのだろうか。この社会の中でよりよく生きるためである。この社会は所有と競争で動いている。そこでは否定の力が大いに働く。人はその中に投げ込まれ、油断すればあえぎながら生活することを余儀なくされる。こういう中で普遍的かつ恒常的に自己を肯定する力は超越的な憐れみ深い存在者にのみ汲むことができる。また人はこの社会では欲によって生きるのであるから、そこで悪、不正義が蔓延することは避けられない。この悪、不正義の力から自分たちを守り、人間の本来のあり方を知るためには、やはり愛と正義そのものであり普遍的善である神に頼むしかない。こういう訳で人はこの世をより善く、正しく、自己充足を目指して生きるために神への信仰を持つのである。

  神学院での養成の中でも、霊的養成は重要な位置にある。それは霊的養成が司祭養成を完成するからである。(『現代の司祭養成』45参照)この養成の目的は、司祭が自分の姿を通して映し出し、キリストをこの世界に現存させ得るものとなるためのものであるから、キリストとの深い一致を具体化する事によって進められる。

  キリストとその教えを知るために、聖書や教父の教え、教会の教えを学び、キリストの教えに生きた聖人たちの模範を学ぶ必要がある。神との具体的交わりに生きるために、聖書を黙想し、祈りを実践する。また諸秘跡、特にミサ聖祭を通してキリストのあがないと愛の記念を、今そこで秘跡的に体験し、神の恵みを常に実感することも必要である。また神の恵み、働きに敏感になるために内省し、自分が神に生かされていることを何度も繰り返し見つめ、自分を生かしている神の恵みを霊的に観じ味わうことは不可欠である。神の恵みへの敏感さを保つために、ゆるしの秘跡にたびたび与り心を清め、また自分の歩みが相応しいものであるように、自分の思いや歩みを霊的同伴司祭に打ち明け、同伴司祭の示唆に耳を傾け従う謙虚さも必要である。

  霊的養成は単なる理想ではなく実践である。 霊的生活が深まっているかどうかは、その人の言葉、姿、あり方に端的に表れる。従って、「全ての人に」対応できる司祭になるためには、霊的養成を意識し、実践する必要がある。人は時間と空間、状況の中で生きている。養成においても時間と空間、状況を利用する必要がある。すなわち人は時間と空間と状況の中で養成されるのである。神との関わりの時間を持つことである。他の人と共に行う決められた祈りの時間があり、また個人的な祈りの時間がある。人の霊性は繰り返しの祈りの中で深められていく。

  また場所も大切である。人は種々の場を大切にする。食する場、寝る場、仕事の場、遊ぶ場など。同じように自分を見つめ神と対話する場-特に聖堂を大切にすることである。人は場によって自己形成がなされるのである。

  人はまた状況、状態の中に生きる。状況、状態の中で自分を保つために、臨機応変に種々のことに対する力が必要である。その際、いつも自分が大切にしているものに戻り、堅固な存在基盤の上に立つことが必要である。種々の状況、状態がその人の霊性の深さを試すことになる。

  人は形の中で形成される。霊的次元においても形は重要である。形が心の内面を作ることなる。例えば祈りの形がなければ、祈りは流れ、祈りの意味がわからなくなる。祈りの形を整えると、祈りが全身表現され、祈りの味わいが生まれる。 そして形はその意味を問うことになる。意味を問うとき事柄は深められていく。

  霊的養成を深める上で大切なことはバランスである。祈りと奉仕のバランス。 神を愛することと隣人を愛することのバランス。 そのバランスは一方と他方という意味ではなく、一方から他方への連続性である。 つまり神を愛せないなら、隣人への奉仕は、自己中心となり、隣人への奉仕が効果的となるためには神への愛から力を汲む必要がある。

  また霊性は理論的なこと、理想的なことではなく、実践的なことであり、観じ-感じられることである。霊性は自己肯定とゆとり、そして謙遜と柔和、さらには忍耐と節制、剛毅、他への愛、赦しと奉仕などの具体的な力となって現れるのである。
  霊的養成は司祭の役務を通して生涯続けていくべきものであり、その味わいと基本的方法を神学生時代に体得するのである。