TOPページ  >大山神父の「カトリック司祭の養成」 人間的養成      
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  使徒的勧告『現代の司祭養成』は司祭養成を4つの次元から説明している。まず司祭養成の基礎となる人間的養成、次に神との交わりに、キリストを求める霊的養成、さらにはキリスト者の信仰の理解を助ける知的養成、そしてよい牧者であるイエス・キリストの愛と交わりを実践するための宣教・司牧的養成である。この4つの養成次元の中で、人間的養成が全養成の基礎とされている。それは宣教の受け手は人間であり、司祭の人間的個性が大きく影響するからである。また司祭は「キリストの代理者」とも云われ、キリストとのつながりを豊かにする霊的次元も大切であるが、しかし霊的養成はその養成をうける人の心に傷があったのでは、十分に深まり、効果あるものとはならないからである。  

  さて、人間的養成においては、調和のある成熟した人格形成がなされる。司祭は「全てに対して全てとなる」(1コリント9.22)人であるから、交わりの人、関わりの人となるために必要な能力を十分に身につけてなければならない。たとえば「真理への愛、誠実さ、他者への尊敬、正義、共感、一貫性」など。また司祭は「謙遜、柔和、朗らか、気さくさ、率直、もてなし、賢明で慎重、寛大な人」であり、「自己犠牲、ゆるしと慰めのできる人である」ように求められる。このような人間性を身につけるためには、情緒的安定が不可欠である。それまでの生育過程において、自分の親やあるいは他人から、何らかの形で過度に傷つけられたり、愛情を十分に得ることができなかった場合、心にねじれや歪みが生じて、人間本来の心の力を発揮できなくなってしまう。その結果、自分自身を大切にしたり、また他人を愛することができなくなる。他者との関わりにおいて自信を持つことが出来なかったり、不平不満を口にしたり、他者を自分の尺度で理解し偏見の目で見たり、他人と競争し、他人を誹謗中傷し、他人の悪口、うわさ話をするようになったりする。このような場合、祈りなどの霊的な生活も形骸化してしまい、神の教えやみ言葉を、他人を攻撃するための自分の武器として利用し、他人を裁いてしまうなどのことが起こる。それゆえ感情の癒しは、霊的生活を充実させるためにも不可欠である。


  また司祭はその全生涯を神と教会に完全に捧げる。それは「独身に生きる」という形で表明される。このいとも高貴な自己奉献に十全に生きるためには、男女の愛と性のあり方について偏見のない十全な理解と情緒的な成熟に達することが不可欠である。独身とその意味についても、「情感の傾きと衝動的欲求は残る」。一般的に成育史における愛情不足や、愛情の歪み、心の傷などが性的傾きを衝動的にすることもある。それゆえ自分の心模様を知り、心傷をいやし、自分の心を健全な姿に整えることが重要となる。また司祭としての身分を危機にさらすあらゆる事柄に対する賢明な判断と節度ある行動を心がける力も必要である。
  このように司祭養成における人間的養成は、人間関係力を豊かにし、自己肯定感を構築させ、愛と性のあり方にバランスを取らせるために、第一に優先的になされるべき基礎的養成である。しかしそれは霊的養成や知的養成を無視したり、軽視したりするものではない。心のねじれ、歪みが正されなければ、霊的養成も知的養成も偏ってしまい、十分な効果を発揮できないからである。人間的養成は知的養成によって効果的になされ、霊的養成によって完成されるのである。