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*** はじめに
  ヨハネ・パウロ二世教皇はその使徒的勧告『現代の司祭養成』の中で 、司祭の生涯養成は「緊急な課題である」と述べる。それは司祭たちの奉仕の場の「社会的、文化的条件が急速に変わっていく」からであり、また教会は「新しい福音宣教」を基本的な重要課題としているからである。
  神の民全体の成長との刷新は司祭たちの働きに依存している 。司祭たちが常に永遠からの言葉によって刷新され、現代社会の種々の状況にあるすべての人に、自他を肯定し、共に喜びのうちに生きる力を回復させ得るなら、教会は生きた共同体となっていくだろうし、司祭が自己の刷新を怠り、この世界の欲の流れから影響を受ける者になるなら、教会は活気を失い、その力は萎んでいくことだろう。
  司祭は特に闇と死の蔭にある人が、愛と喜びを回復することを願いながら奉仕の役務を遂行する。この聖なる望みが、司祭の生涯養成を通して恒久的に刷新されることは、司祭自身のため、また神の民のために重要である。

 

●Ⅰ.生涯養成の必要性

A.神学院での養成の継続である。
  司祭への養成は神学生が司祭に叙階されて終わるのではない。第二バチカン公会議は 『司祭の養成に関する教令』 22番で、「司祭の養成は、特に最近の「社会事情に鑑みて、聖職者教育課程修了後も、継続され完成されなければならない」と述べている 。また『現代の司祭養成』の71番でも「司祭の生涯養成は、教区司祭にとっても、修道司祭にとっても,神学校や修道院での司祭叙階を目指す訓練で始まる司祭的人格の形成過程の必要で当然の継続である」と述べる。
  また司祭の生涯養成は、若い司祭たちだけに関わる問題ではない。『現代の司祭養成』77番では「中年の司祭にとっても養成は義務である」と述べ、『司祭の役務と生活に関する指針』95番 では高齢者の司祭の生涯養成に言及している。

B.司祭の本質から生じる必然的要請である。

*司祭は聖霊により生きる
  『現代の司祭養成』70番の中で、生涯養成の基盤および動機づけは「聖なる叙階のダイナミズムに含まれる」と述べられている。司祭は御父に「聖別され」、御子に「派遣される」だけでなく、聖霊に「生かされる」 のであるから、神の賜物によって「再び燃えたたせ」(二テモテ1.6)られ続ける必要がある。

*司祭は主の「呼び出し」に生涯をかけて応える
  叙階の秘跡において、神は志願者を教会の面前で司祭職への呼び出し、「来て、わたしに従いなさい」というイエスの言葉を決定的に具体的なものとする。神による呼びかけと派遣は、その司祭が生きる教会や社会の生活の中で、継続的に行われる。従って司祭が呼びかけと派遣を繰り返し確認することは重要である。「イエスに従う」ことは一度の宣言で完全に成就するものではなく、自己の献本選択を何度も確認しながら、命をかけるほどまでに強められていく必要があるということだろう。

*司祭は信徒の霊的養成を受ける権利に応える。
  キリスト者は、牧者である司祭から、神のことばとその教えを聞き、特にゆるしの秘跡などを受けて霊的に養われ、人格的に成熟し、救いの神秘を知り、それに生きることができるようにキリスト教教育を受ける権利 を有する。このキリスト者の霊的な養成を受ける権利に、誠実に応えることは、司祭の正義から生じる義務であり、牧者としての愛である。
  現代世界の特徴は変化が激しく、多次元、多方面に展開し、実証科学にもとづく世俗化が進んでいる。こういう社会の中で生きる人キリスト者に堅固な信仰を保たせ、まだ神を知らない人たちに神を知らせ、神との関わりから生きる力を得るように、かれらの霊的な生き方を支えるためには、司祭自らが、キリストの現存を感じとらせる人、キリストを映し出す聖なる人 であり続ける必要がある。

 

●Ⅱ.生涯養成の内容
  それでは生涯養成においてはどのような領域、次元での養成がなされるのだろうか

A.生涯養成の領域
  『司祭の役務と生活に関する指針』74番では、司祭の生涯養成が「人間的、霊的、知的、司牧的、制度的そして個人的な全領域に関わるべきもの」であり、これらの全領域を包含し、調和づけるものであることを求めている。
  またこの養成が、十全的で効果的である為に、段階を追って、的確な方法で、系統的に組織づけられるべきものである(同上79番)。
  さらにこの養成は、それを受ける「一人ひとりに役立つもの」でなければならない。(同上80)

B.人間的面での養成
  司祭はあらゆる状況で、様々な人との出会いが予想される。司祭は「すべての人に対してすべてのものになる」(1コリント9.22)人である。それは司祭を通して神が「すべてにおいてすべてとなられるため」(1コリント15.28)である。
  こういう司祭たちに堅固なアイデンティティ、健全な自己肯定感が求められることはいうまでもない。
どんな人との出会いにおいても、どんな困難な状況、孤独、不安、怖れ、悲しみの中にあっても、司祭としてのアイデンティティを保てるためには、少なくとも次のような力を持つことが必要ではないだろうか。すなわち種々の物事に向き合う強い精神力、物事を的確に判断し、展望し、実行していく力、自分の行ないに責任を取る能力、司祭職の三つの任務を遂行する力、バランスのとれた関わりの力(異性との関わりを含め)、愛する力、思いやり、気づかい、優しさ、相手の過ちをゆるし、また自分の過ちの赦しを願う強い力、愛にもとづく正義感、自分の感情をコントロールする力、他の人や物事への感受性、社会的品行、礼儀正しさなど。
  司祭としての生涯の間に、何度も大小さまざまな十字架に直面する。それらを神の助けによって克服していくためにも、繰り返し自分の無力さを自覚し、他者の助言を受けながら、人間力を強化していくことは、司祭にとっても、またその司祭を牧者、宣教者するキリスト者たちにとても意味のあることである。

C.霊的面での養成
  人間存在は本質的に宗教的であるので、司祭の人間的養成は、霊的養成に向かい、その中で完成されるものである。
  司祭はその生涯を通して、今、この時代に、そこに「キリストを具体的に現存させる」キリストと一なる存在 である。それはパウロが言うように「生きているのは、もはやわたしではありません。キリキリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2.20)といえるほどに、常にキリストと深く結ばれる存在であるということに他ならない。
  教会の活力は司祭たちの霊性にかかっている。司祭の姿がキリストの霊に満たされ活き活きするならば、教会に来る信者たちは、自分たちの持つの「信仰」に自信を持てるようになる。
  現代の移り変わりの早い、相対的な価値観の中で、司祭たちは多くの問題に直面しストレスを抱えている。こういう状況にあって司祭は、み言葉の黙想、祈りの実践、諸秘跡の執行、種々の信心実践などを通してセルフケアを行い、本来の新生さと聖性を回復する必要がある。

D.知的面での養成
  司祭がイエスを人々に十全的に知らせ伝えるためには、み言葉や教会の教えをあいまいにではなく明確に知る必要がある。
  神の言葉や教会の教えが、その時代の人々に正しく効果的に受け入れられるためには、司祭はその時代の思想、状況、価値観などを知る必要がある。社会状況や学問的研究は日進月歩である。
  特に生命倫理や環境倫理など倫理学の領域での社会の変化は凄まじい。そのほか聖書学の研究も一段と深まり、典礼学やエキュメニズムの面での展開も見られる。
  社会の知的領域での変化が激しい現代、司祭たちは、人々に神のことば、教会の教えを新鮮な形で伝え、キリスト者の信仰を堅固にする為に、教会の内外の知的情報を集め、分析し、絶えず知的研鑽を積まなければならない。また効果的な伝達方法なども学び、身に付け、実践し続けて行くべきである。

E.司牧・宣教的面での養成
  司祭は自分の姿、生き方を通して、頭であり牧者であるキリストを宣教、司牧の現存させる人であるから、キリストの牧者としての愛を生きる責任がある。すなわち「牧者としての愛を喜んで受け入れ、またその愛が求める限り、どこまでもこのダイナミズムを生きていかなければならない」 のである。
  司牧者の愛に生きるとは、イエスのように人々に「教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやし」(マタイ4:23)、また「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れむ」(マタイ9:36)ことに他ならない。自分から人々の中に出かけ、また心身の癒しを求め近寄ってくる人々を受け入れ、誠意を尽くしてかれらに聴き応えることである。
  特に「新しい福音宣教」 における新しい情熱、新しい方法や手段、新しい表現を追い求め続けることや、種々の倫理的問題、カテケジス、召命、青少年司牧、高齢者司牧、病人司牧、エキュメニズムなどの諸問題を、司教と他の司祭たちと共に学び、分かち合うことは、司牧者の愛を効果的に遂行することに繋がるだろう。
   生涯養成は司祭の信仰をつよめ、自分が何者であるかを自覚させ、すべてのものごとをキリストの眼差しで見ることができるように、その心を常に新たに保たせ、愛と喜び感謝に満たされて司祭職を遂行できるように支えるものである 。

 

●Ⅲ.生涯養成の対象
  すでに述べてきたことから明らかなように、生涯養成は叙階を受けた後の司祭全員が対象となる。生涯養成は、神に招かれキリストの姿、牧者の愛を、今の時代に現存させるように派遣されている司祭にとって、そのアイデンティティを保つためにも、当然の権利であり、同時に義務でもある。そしてそれを与えることは教会の権利であり、義務である。

A.若い司祭たち
   若い司祭は、司牧、宣教の現場に派遣されると、必然的にキリスト者、あるいは求道者が抱え、持ち込んでくる種々の問題に遭遇し、また多忙さ、種々の関わりから生じるストレスにつぶされそうになる場合もある。それゆえ司教や先輩の司祭団との交わりと分かち合いを通して、共に祈り、種々の問題を共に考えることが重要となる。
  この期間には司祭としての基本的生活になじませ、司牧、宣教の熱意を保てるように、また特に宣教、司牧の任務の中に聖性を追い求めるよう促し、月の静修、ゆるしの秘跡に与るように勧め、熟練した司祭を紹介し、その霊的導きを受けるように導くことはとても大切である。
  系統だった継続的養成により、叙階を受けて間もない助祭や司祭たちは、休養と祈り、黙想などを通して、自分と神との縦軸関係、すなわち霊的基盤を固め、他方では司教を初め同僚や先輩の司祭たちとの横関係を深めることで、司祭のアイデンティティを形成していくことなる。

B.中年の司祭たち
  中年の司祭たちはしばしば二面性を持つ。ある時には自己中心で、居丈高に上から目線でものごと見下ろす場合があり、またある時にはキリスト者に聴き、共に歩み、共に考えて物事を進めようとする。司祭たちはこの二面性のどちらかに重心を置くが、自分たちはそれに気づかない。
  また年を重ねるに連れて種々の能力が衰退してくるので、関わる範囲が次第に狭くなり、関わりの柔軟性が失われる。
  こういう状況にある中年司祭が、司祭相互の縦横関係を維持し、司祭としての自分の本来の姿を繰り返し確認し、司祭の香りを醸し出しながら、人々を霊的に励まし、力づけ続けえるものになることは、その司祭にとって、また教会にとっても重要である。

C.年配の司祭
  高齢者の司祭の姿や生きざまは、それに続く司祭のたちにとって、自分たちの未来の姿であると感じている。それゆえ高齢者には、後続の司祭たちの希望を鼓舞する存在である。
  それゆえに高齢者司祭が「司祭団の中で、彼らが今でも果たすことができる役割についての冷静な確認をするため」にも、「生涯養成に参与する」 ことは大変、有意義である。
  高齢者司祭が 「共同体や司祭団から孤立することなく」 「生涯養成に助けられて、静かにかつ力強く、教会への奉仕を継続」し、「教会建設のための活動的な一員であり続けているという確信を持つ」 ことは、彼らの司祭としてのアイデンティティを保たせるために有益である。



●Ⅳ.生涯養成の責任
司祭の生涯養成の必要性は誰にでも分かることであるが、その実行は難しい。それは教会共同体全体に、わたし自身に課されている義務であり、責任であるという自覚がないからかもしれない。

1.部分教会全体
  神の民は自分たちの場で神の霊に生かされ、この世界でキリストの教えに具体的に生きている。常に神から力を受けて、キリスト者の霊性に生きているし、社会に対しては愛と赦し、正義の実践を通してキリストの教えに生きている。これらの生き方そのものが、すでに司祭たちの影響を与えている。実際、司祭は社会の中でキリストの教えに生きる人々の中から呼び出され、そしてキリストの福音に奉仕するために、その人々のもとへ遣わされるのである。
  社会の中でキリストの教えに懸命に生きる神の民の生き方そのものが、司祭たちの自己養成に多大な影響を与えている。言い換えれば、神の民がこの社会の中でキリスト者として生きるための、霊的な教えと力の受容を司祭たちに請うことがないなら、司祭たちが自己刷新するための刺激を得ることはない。
司祭の養成のために神の民も責任を持ち種々の面で協力するべきである。

2.司祭
  主の宣教者、司牧者であることへの「相応しさ」「不相応さ」の狭間を現に生きている司祭にとって、生涯養成は司祭を自覚させ、その使命を遂行するための、重要な機会となる。 生涯養成によって司祭の本質を繰り返し自覚し、牧者としての愛に生きる力を充填し、霊的新しさ「若さ」を保ち、司祭の本来の姿に戻ることができる。また神の民を、彼らが直面する種々の問題から守り、彼らと共にその問題の解決の方策や手段を探ることもできる。従って、生涯養成の第一の責任者は、司祭職への召命を自由意志によって引き受けた司祭その人である。
  司祭職の奉仕の務めを誠実に果たし、その使命の遂行のために頂く聖霊のたまものに忠実であろうとする者が、生涯養成を望むことは義務であり責任なのである。

3.司教と司祭団
  司教は司祭候補者を司祭に叙階し、その司祭を神の民と社会に派遣するのは司教である。それゆえその司祭の生涯にわたっての養成に関しての責任は司教にある。司教は自分にゆだねられたすべての司祭の意識の中に「生涯養成の重要性を必要性」を植え付け、かれらが「叙階の時に頂いたたまものと奉仕職に常に忠実であり続け、神の民が望むような司祭、神の民が持つ『権利』に応えられるような司祭になる」ために生涯にわたって繰り返し養成に与れるように配慮するのである。
  司祭の生涯養成が効果的であるためには、司教自らが生涯養成に熱心に取り組み、司祭たちと共に歩み、励まし、支えることである。司教自らが「興味を持って、心から参加することで、自らの責任をはたすことができる」のである。


●Ⅴ.生涯養成とその妨げ

A.養成を受けることへの嫌悪感
  司祭たちも話し、教えることには慣れているが、他に「聴き」「教えを請う」ことには慣れていない。専門的なことを、自分の司祭職を果たすために必要と思われるまだ知らない領域の知識を、権威ある人から得たいと思うことはあるだろう。今自分に必要と思える知識などを、自分から求めていくことは容易である。しかしある制度の中で規定され、上から与えられる養成を受け入れることは容易ではない。まして自分の生活の質を内省し、刷新するための養成になると、「その必要はない」と突っぱねようとするのが、人間としての当然の反応であろう。
  これらの心情を克服するには、自分を鼓舞して、司祭の原点に帰り、司祭の本来性を確認し、神の民の善を優先するという謙虚な意識が必要である。

B.宣教、司牧の多忙さの現実
  種々の会や勉強会、講義、要理、奉仕活動などに、休みも取れないほどに追われている司祭がいる。そしてしばしばその仕事を誰か別の司祭に代わってもらうことは出来ず、その司祭しかできない仕事に埋もれている場合がある。こういう状況においては生涯養成を受けることなど不可能である。
また仕事の内容が、別の司祭でも代替できるとしても、そのような司祭が身近にいない場合もある。このような司祭は、生涯養成に参加したくても与れないことになる。
  このような状況を打開することは容易ではない。研修の期間を短くしたり、信者に協力を願うなど、色々の知恵を出し合う必要がある。信徒の信仰養成、リーダー養成も必要となるだろう。

C.参加する金がない場合
  教会でも高齢化が進んでいる。若い人たちは教会に魅力を失い、教会離れが進んでいる。そうなると教会を維持することも難しくなっていく。教区への収入が減少するなら、司祭を養うことも難しくなる。まして旅費や研修費用を出すことも難しくなる。
  司祭たちの魅力がなくなれば、教会は魅力を失うし、人離れはさらに拍車をかけることになる。司祭たちが司祭としての魅力を醸し出せるようになるために何が必要であるか考え、そのために教会全体が金銭面でも協力することが、優先されるべき課題なのではないだろうか。

D.内容が参加者のニーズに合わない場合
  人は自分が興味のあるもの、自分を豊かにする物事には金と時間をかけるし、出かけていって手に入れようとする。しかし逆に自分の益にならないと思うものには無関心となる。それゆえ教会は生涯養成は一方では「個人的であるべき」であり、また「すべての司祭に対してなされるべき」 であるとも述べている。
  生涯養成が企画されるときには、事前に参加者にアンケートを採るなどして、それぞれのニーズに応える内容が織り込まれる必要があるだろう。

*** 結び
  インターネット普及と共に情報が氾濫し、価値観の多様化、相対化が増している。実証科学や心理学的思考が強まり、感覚的経験に基づく論理的言及に関心が集まり、そこにのみ真理があると考える人が増えている。そして今や独断的、教条主義的言及には冷ややかな反応が見られるようになってきた。 教会で司祭が話す内容にインパクトがない。それは司祭が話すことと、生きて示すことの間に差異を感じているからである。司祭たち自身がこの差異を一番知っていながら、いまだ独断的、教条主義に身を寄せ続けている。
  神の民に中に、そして人々の中に派遣されていく司祭たちが、日常の神との親しい交わりから、力を得て、司祭の本来性を回復し、活き活きとするなら、そこに人々は希望を見、そこから力を汲むに違いない。
  司祭は神に召され、キリストに派遣され、今、聖霊の力によって、現場で生かされている存在である。このことを頭で理解し行動するのみでなく、実際にそのような力が司祭である自分の内奥から溢れ出てくる程までに、神との親しい交わりを深め得るなら、神の民は活気を取り戻すのではないか。 司祭たちが共に集い、顔を会わせ、祈り、食し、汗を流し、考え、学ぶ時、司祭たち本来の姿を回復するのではないか。
  現代は霊的な次元が独断的事柄として一刀両断され否定される時代である。堅固な岩(マタイ7.24-25)に足が着いている先人(聖人や先輩)たちに聴く時を持つ必要がある。それが司祭としてのアイデンティティを強め、教会を活き活きと輝かすことにもつながるからである。