TOPページ  >大山神父の「カトリック司祭の養成」 弱さを生きる司祭      
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  しかし、司祭といえども生身の人間なので、種々の弱さを身に負っている。この弱さに気づき、見つめ、その弱さを克服し、日々キリストに近づけるように祈り、少しずつキリストへと変えられて行くのである。司祭は自分の弱さに繰り返し向き合いながら、心の清めを行う人である。自分の弱さに向き合う姿を人々に示し、人々に回心の模範を示すのである。

  司祭がキリストの姿に生きるためには、多くの人から見られ、さらされることが不可欠である。多くの人によって種々の視点から見られ意見されることで、人は司祭へと変えられていくのである。
通常、人は弱い者とみなされ他人の下に置かれることを嫌がる。それゆえ自分の殻をかぶり、鎧を身につけて、人から意見されることを恐れ、自分を守り、他者を攻撃する。しかし本当の強さは「弱さを誇れる」(2コリント12.9)ほどに心を主に向けて開き、心のゆとりを得たときである。

  人は口から出る言葉で、美しいことをいくらでも語りえる。しかし後ろ姿を示すことは容易ではない。司祭はキリストを後ろ姿で語る人である。後ろ姿は隠すことはできないし、あるがままを示すほかない。自分の気づかない部分が後ろ姿に現れるものである。後ろ姿は多くを語るものである。人はその姿を見て、その姿に近づこうとする。

  司祭はその人一人でキリストを十全に生きることは出来ない。司祭の総体が一人のキリストをある程度示せるにすぎない。