主の御降誕を相応しく迎えるために心を整え、主の誕生を祝っている。「救い主イエス・キリスト」は2020年ほど前に生まれた。
イエスの誕生は人類に何をもたらしたのだろうか。「救い主」と呼ばれるほどに世の「救い」のために寄与したのだろうか。キリストとその教えを信じる幾多の人が、迫害によって人生を半ばに命を奪われてきたし、いまも奪われている。また逆に人類の歴史には、キリストとその教えを受け入れない人を迫害し、その命を奪うこともあった。
今の日本においてキリストの存在とその教えに意味があるのだろうか。多くのキリスト者は即座に「キリストによる救いは必要だ」というだろうが、現実的にはキリスト教会の熱意は冷め、信徒数も伸び悩んでいる。また日本のみならず海外のキリスト教国でさえ、そのような現状であるから「キリストによる救い」にNOという反応を人々は、教会に突きつけているように思える。
では今の世界の人々にとって「世を救う力」とは何なのか。 それは「金・力」なのかもしれない。しかしその結果が優劣、差別、不平等を生みだし、闘争と支配、そして死につながることを、私たちは身近な経験から知っている。
12月になるとクリスマスのイルミネーションで町中が飾られる。殺伐とした世の中にあって、人々は光を求めているようである。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハネ1.1-3)イエスは神の言として、この世界に生まれた。このヨハネ福音書の言葉は、創世記の1章3節の「神は言われた。《光あれ。》こうして、光があった。」を思い起こさせる。神は言葉によって世界を光のもとに創造する。 すべてが神の言の元にある。そしてすべての被造物は言である神の子イエスによって成る。すなわち存在し生成、成長するのである。イエスこそ全てを新たに創造し「成らせる」神の言である。
人の言葉は関係的力である。異なる二人の者は、言葉で意志を伝え合い、相手に聴いて行動する。言葉が相互の行為とその存在に影響を与える。その言葉は存在を新たに作り出すことも、逆に崩壊させることも、存在を強化することも、弱体化することもできる力である。言葉は人の命を人の命として成長させる力である。実際に親が子に否定的言葉をかけ続けるなら、子は死んでしまうか、心が病んでしまう。逆に肯定的言葉をかけ続けるなら、子は種々の困難を乗り越える力を得て大きく強く成長する。人の命は言葉によって生きるものとなる。言葉は二つの離れたもの結び合わせ、相互に生きる力を与えるものである。もつれた関係を戻す力ともなるし、関わりを強化する力ともなる。
特にキリストの言は命の根源となる。キリストの言は聴く人に永遠の命を与える。そしてキリストの言による命は光となる。キリスト言を聴き、受け入れた人には永遠の命への開きが与えられる。こうして開かれた永遠の命は当人にとっても、まわりの人にとっても希望の光となる。この光は今の現実を照らし真理を悟らせ見せてくれる力となる。
キリストの言は今も永遠から働き続けている。キリストの言はかつて洗礼者ヨハネによって「証し」されたように、今も「証し」されなければならない。すなわちそのキリストの言を具体的な物とし、伝え、示すのは司祭たちである。司祭は今、ここにキリストを現存させ、キリストのイメージを示すのである。
現代、キリストの言が力を失っているとするなら、それはキリストの言を今の社会に呈示するあり方が、現代的ではないからだろう。ヨハネ・パウロ二世教皇はかつて《新しい福音宣教》を呼びかけた。新しい情熱、新しい方法、新しい表現による宣教を求めた。今、教会はその勧告を少しずつ具体化しつつある。
キリストは歴史の中に誕生する。同じように教会は、そして特に司祭たちは常に繰り返し《新たに生まれる》ことが必要である。そうしない限り、《キリストによる救い》を効果的に現代人に示すことはできないだろう。
<完> |