人間は年齢と共に、1年間の長さが短くなるものです。2018年も、もう12月になりました。12月号の「毎日のミサ」を見ていて、自分の誕生日である12月11日の福音書部分を開きました。この日に私は67歳になります。その福音はマタイによって書かれたものでした。
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹の事を喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(マタイ18・12-14)
この部分は大変有名な箇所で、「ストレイ・シープ」として、よく内外の文学書などにも引用される箇所です。夏目漱石の小説「三四郎」の中にも美禰子の言葉として出てきます。
神は一人の罪人が悔い改めたら、その必要が無い九十九人の正しい人の存在以上に喜ばれるという事をあらわしています。人間はいつも正しい事をするだけではなく、たびたび「罪」を犯します。その罪人を探して、許す「愛」がキリスト教の根源であると思います。
この様なたとえ話は聖書中にたびたび出てきます。放蕩息子のたとえ話も同様です。「罪」と神の「愛」による許しに、心から感謝し、キリスト者である自分を幸せに思います。
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