1月30日に映画『沈黙』を観ました。私のこの小説との出会いは、1972年上智大学、ESSの夏合宿で『沈黙』の英語版を英語で討議をするという課題のために英語版と日本語版を交互に数回読んだのが最初です。
40年以上経過して鑑賞した映画、それはとても良く出来ていました。遠藤周作の小説の筋にも忠実でした。日本人の心情についても、とてもよく理解されていると思いました。
鑑賞していて宣教師ロドリゴが踏み絵を踏む場面で、それまで沈黙していた「キリスト」が「踏むがよい、お前の足の痛さは良く理解している」とのみ言葉により、とうとう踏んでしまうところは、思わず涙があふれてしまいました。
さてその前日の年間第4主日の聖書の朗読箇所はマタイ5章のあの有名な山上の説教でしたが、不思議にその中の「悲しむ人は幸いである。 その人たちは慰められる」「義のために迫害されている人は幸いである。天の国はその人たちのものである」という箇所が頭を過りました。
私は毎年ペトロ岐部神父と187人の殉教者の為に江戸巡礼を行っていますし。今年は2月7日に高山右近の列福式もあります。 ペトロ岐部神父が穴釣りの刑にあって「きべヘイトロ転ばず候」の文書が示すように、殉教は死にまさる信仰があり、苦しみに耐える強さがあった証しです。いわば強き者の迫害に対する勝利でもあります。
一方遠藤周作が描きたかったのは「弱き者」の信仰です。これはキチジロウにみられるような、信仰を持ちながらも迫害に負けてしまう人々。そして自らの信仰を守り通すことで日本人の信徒が殺されてしまうという状況にあって、ロドリゴが踏み絵を踏むという選択です。自分が踏めば、まさに穴釣りの刑に遭っている日本人信徒が助けられる。その様な場面で、キリスト者としてどちらの選択が御心にかなうものでしょうか。
1972年のESS夏合宿において、私のグループに居られた香港在住のイギリス人神父様は、
「私はこの『沈黙』という小説は嫌いだ」と強くおっしゃいました。それから1年程経過して、ある日本人の神父様と『沈黙』について話す機会を得ました。その神父様に香港の神父様の話をしたところ、そのお答えは「『沈黙』は日本人だけに対する特別なキリストのメッセージだ」との事でした。マタイ福音書の山上の説教で、ともすれば矛盾するように感じる『幸い』はここに答えがあった様に思いました。
30日は月曜日であったことにもよりますが、日比谷のスカラ座はとても空いていました。
600人以上収容できる劇場ですが、見ていたのは100人程度でした。皆さまに置かれましても、できるだけ早く鑑賞される事をお勧め致します。
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