A.認識(価値観)の大転換
4月28日~29日、麹町カトリック聖イグナチオ教会において「召命担当者の集い」が行われ「召命の土壌」について考えた。 参加者は司祭、修道者、信徒を含めて110名ほどであった。その基調講演において池長大司教は「召命の不毛の時代、認識の大転換が必要」と強調された。
1960年以降、経済的豊かさを追求してきた日本。学歴を向上させ、人々を競争へと駆り立て、心の豊かさより物的豊かさを求めてきた日本。確かに経済的に豊かになったが、精神的な豊かさと強さ、ゆとりは据え置かれている。そしてその経済的豊かさと競争は教会のメンバーにも影響を与えており、いつしか福音的魅力が失われている。 こういう状況においては、召命は種を蒔いても不毛にならざるをえない。この窮地から脱するためには、物事の見方、考え方、とらえ方の大転換が必要である。すなわちは「人は自分の力だけでいきるのではなく、神が与えるパンによって生きる」「人は生かされて生きる」ということを再認識するべきというのである。
B.聖霊を呼吸する。
人は時の中で生きる。今を生きているが、過去を生きたのであり、そして未来を生きるのである。人の生は常に古くなり、常に新しい未来に投げ込まれている。 今を生きるとは、常に古さと新しさの「狭間」を生きることである。人は何をせずとも常に新しさに生きているように思えるが、実は古さに引きずられ、束縛されている。 すなわち自我から解放されることなく、我欲のかたまりとして生きている。自分を守って生きるのに精一杯で、人のために生きるゆとりはない。
常に新しさにいきるためには、永遠なる存在である聖霊によって、今を生きる力を得ることである。聖霊によってこそ、常に「今という新しさ」を生きることができるのである。 自分が生きようとすれば、自分を失い、聖霊に生かされて生きようとすれば、「新しさ」に生きることができる。 そして「新しさ」に生きるとは、神の霊によって、神の御心に生きることであり、「すべてに対してすべてとなること」、(一コリント15.28)すなわち「他の栄えのために自分を与える生き方」をすることである。 これこそがキリストに従う者の生き方(一コリント9.22)である。
神の霊である、聖霊によって生かされるとき、つまり聖霊を呼吸して生きるとき、人は常に「新しさ」の中に生きることができる。
「自分が」「自分の力だけで」「自分のためにだけ生きる」 というのではなく、永遠から生かす聖なるかたに信頼し、その霊を呼吸しながら、その力に生かされていることに気づきたい。その気づきの中でゆとりと安心が生まれ、人間の本来の魅力(愛)が輝きとなって溢れ出て来るのではないだろうか。 |