復活節とは
イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された(使徒1.3)。この同じ体験を霊的に追体験する典礼的期間が復活である。復活されたイエスに繰り返し使徒たちは出会う。復活後のイエスは、常に弟子たちの側に見える形でいたわけではない。弟子たちは復活したイエスと出会いながら、イエスへの復活の信仰を深めて行ったのであろう。
私たちもこの復活節に、復活されたキリストに何度も出会いながら、復活の意味と知り、復活の神秘を味わい、復活されたキリストとの親しみを深めていく。
特に神に捧げられた司祭、修道者は21世紀に生きる今、かつて弟子たちが体験したように、復活されたキリストに出会う。キリストの弟子たちが復活されたキリストに出会うのと、21世紀に生きる私たちがキリストに出会うのとは、重みが異なるかもしれない。キリストの弟子たちは、かつてキリストを間近に見、具体的に接していた。言葉を交わし、共に宣教し、共に食し、共に祈っていた。そのキリストが捕らえられた、苦難を味わい、処刑された。その時の失望、絶望と恐れ、不安、悲しみは計り知れない。そのような彼らが復活したキリストと出会う体験をする。どのような復活体験かは具体的には分からない。聖書の記述通り理解するなら、生前の同じキリストとの具体的出会いだったようである。
一方、21世紀に生きる私たちは、具体的、可感的、可視的な出会いはできない。それでも弟子たちが、キリストと出会ったのと同じような霊的体験をすることはできる。
かつての弟子たちは、イエスの現れを自分たちの認識の力、すなわち具体的記憶や想像、そして感覚的認識力によって感じ取っていた。しかし私たちは、自分の認識力だけによってではなく、聖霊の助けによってキリストと出会うのである。
復活されたキリストとの出会い
復活されたキリストとの出会いは可感的、可視的、具体的な出会いではなく、聖霊の恵みによる霊的出会いであるから、霊的に感じ取るものである。復活されたキリストとの霊的出会いは、新しさ、刷新、勇気、希望、力、光、喜び、安心、和などとして霊的に感じられるものである。復活されたイエスを種々のイメージ(絵画、映像など)を通して、想像することはできる。これは誰でもできる。しかしこれは知識になっても、力にはならない。復活がもたらす力は種々の力となって具体化する。それは生きる力、他を生かす力、存在を肯定する力、回心する力、永遠から力を汲む行為、愛する力、ゆるす力、自己をさらす力、洞察、識別する力、癒す力、相手の信仰を育てる力、自立させる力などとなって具体化するのである。従って復活したキリストに出会っている人は、安心とゆとり、感謝の心に満たされるのである。永遠の命と出会い、永遠の命によって包まれ、永遠からの力でさえられ、満たされるからである。永遠の恵みに満たされるほど自分の小ささ、有限性、限界性、罪深さなどを知るようになり、こういう自分に永遠の恵みが与えられることは「有り」「難い」ことと感ぜざるを得ない。こうして喜びを感謝に生きる人となる。
復活されたキリストに出会わせる使命を持つ
司祭・修道者は自分が神に出会うだけでよいのではない。彼らの使命はその出会いを、他の人に感じ取らせることである。自分が復活されたキリストと出会うだけでは意味は生じない。自己完結で終わってしまい、行為の方向性が決まらないからである。復活されたキリストに出会い、キリストから力を汲むとき、人は愛し、ゆるし、支え、包む行為が自分の中から溢れてくる。必然的に他を愛し、他をゆるし、他を肯定し、その本来の姿を生きる事ができるように支える人となるのである。これが福音宣教となる。復活されたキリストの力が、私を通して他者に広がっていくのである。
復活されたキリストに出会っている人は、キリストの光、平和、いつくしみを、恐れの中で閉じこもっている人、心の頑なな人たちに告げる者となるのである。
<完>
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