イエスの誕生は単なる誕生ではない。《天から降ってくる》という形での誕生である。もちろんそれはキリスト教教義の中での教えである。キリスト者は、救い主はイエス・キリストであり、《天から降って来た方》と見做している。つまり人は自分の救いの力にはなれず、人間を超えた天にいる神からの助けによって救われると教える。神が天から降るとは、完全から不完全へ、無限から有限へ、永遠から時間へ、不可視から可視的存在へ、永遠の命から苦と老いと病と死の命への降下であり、それは空化、無化である。人間の論理では有り得ない《降り》である。しかしこれは人間の《救い》のために不可欠である。神の降下によって、人が神の命に与れるものになったからである。 救いは《降下》によって為されるのであり、《下に降る》というあり方そのものが人の救いを可能にするということである。
キリスト教は神が人を救うために、すなわち神の命に与らせるために、イエス・キリストを遣わしたと考える。神から遣わされたイエスが人間となって生まれることにより、人は神に関わるものとなった。神から遣わされたこのイエスの誕生のことを《受肉の神秘》と呼ぶ。神の子であるイエスが受肉することで、人は神の命に与る者、《聖なるもの》になる次元が開かれた。また神の側から受肉を考えるなら、神は見える形で自分を示されたともいえよう。イエスは「父を見せてください」というフィリポに「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14.9)と言われたのである。また「受肉の神秘」は神が人と「共にいる」ことを具体的に示す神秘でもある。イエスの誕生に際して、マタイは次のように書いている。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイ1:23)イエスの「受肉の神秘」は「神が共におられる」ということを端的に示す神秘に他ならない。
神の子イエスの誕生は《生まれる》という事実の中に具体化された出来事である。イエスはマリアから《生まれた》のである。人は《自分だけの力》で、この世界に存在を始めることができない。人は誰かから、誰かを通して生まれる。人は他者の保護の元に命をうける。しかも、掛け替えのない唯一無二の《この人》として《生まれる》。ここにあらゆる《関わり・交わり・つながり》が始まる。イエスが人として《生まれた》という事実は、人間の関わりの神秘を肯定し、聖化する出来事であったと言えよう。
神からの救い主である御子イエスは《乳飲み子》として、まず羊飼いたちに示される。イエスの誕生の知らせを最初に受けた羊飼いたちは幸いである。誰がこのような光栄に与ることができるだろうか。何故、その知らせは、まず「知恵ある者や賢い者」(マタイ11.25参照)にされなかったのか。イエスの救いは実存的、実感的、具体的出来事であった。メシアの誕生は支配階級の人たちのためだけではなく、まず無学で、最も小さくされ、救いから最も遠かった人々に、具体的に、感じとられるべきものであったのだろう。人間の存在全体、被造物の存在(ローマ8.19)の救いのためにメシアは生まれたのである。
乳飲み子は自分では何もできない。全く人の保護を必要とする。人が世話の手を緩めるなら、命の危険に直面することになる。そういう小さい、か弱い存在として、《救い主》は人の前に現れたのである。救い主は最初から人の力、助ける力、愛の力を頼りに生まれ出たのである。人にとって最も大切な力、人が神の救いに与るために発揮するべき力、《愛の力》を引き出し、育てるために生まれたのである。
イエス誕生のためにマリアもヨゼフも自分の全てをかけた。マリアは神の使いである天使から、《イエスを宿す》というお告げを、受けたときに、「わたしは主のはしためです。 お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1.38)と言ってすべてを受け入れる。「救い主の母」になることは、「救い主」と生涯共に歩むことであり、それは苦難、命がけの歩みであった。一人ではできない歩みであり、その伴侶としてヨゼフはマリアと共に歩むことになった。ヨゼフはいいなずけであるマリアが身ごもっていることを知り、密かに別れようとした。しかしそのヨゼフの夢に天使が現れ「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」(マタイ1.20)と言った。その言葉を受け入れ、ヨゼフはマリアを受け入れマリアと《共に歩む》ことになった。一大決心だったことだろう。
救い主はヨゼフとマリアの間に来られ、二人の家庭を祝し「共に」生活されたのである。救いの最初の場は家庭であり、夫婦の愛と信頼、そこを固めるのが救い主の最初の仕事である。健全な家庭がなければ、夫婦の間に愛と信頼がなければ、人類に救いはないということだろう。
神と教会への奉仕に招かれ、キリストの姿を映し出す存在である司祭たちは、誰よりイエスの誕生の神秘を理解し、その神秘に生き、その神秘を伝える人である。
救いとは何か、何故、救いが必要なのか。平和で、豊かで、自由な社会に生きる人にとって、救いは必要でないように思われる。救いを必要とするのは苦と死の淵にある人である。戦争や、事故、事件、貧困、捻れた人間関係、思想的弾圧、宗教的迫害などで生きる自由が束縛され、命が危険にさらされているとき人は《救い》を求める。
人から苦しみと死を取り除くことはできない。肉体存在である限り人は老いて、病んで、力を失い、死んで行く。どんなに自由に、豊かで、平和に過ごした人も病気や老い、死を前にして、恐れを感じる。何故、人は死を恐れるのか。それは死によって全てのつながりが切れ、いかなる関わりも出来なくなり、全く孤独になると直感するからである。この死の不安と恐れを前にして人は《救い》を求める。
時間と空間に制限された有限な自覚的存在である人間は、何らかの意味で《救い》を求める存在である。自分の苦と死を自覚する人間は、《救い》を必要としないということが有り得ない存在なのではないだろうか。
イエス・キリストの救いは「罪からの救い」である。罪とは神の御心から離れて生きること、神との関わりが切れることである。神は愛である。神の御心から離れることは、愛を失うことであり、それは憎しみ、裏切り、他者否定、他者支配などの力が増すことである。その結果、種々の悪、すなわち戦争、事件、支配関係、人間存在の歪みなどが生まれてくる。これに対して、イエスは「幼子として生まれ」人間に最も大切なことは、幼子を抱き上げる愛を思い出すことを人類に示されたのである。 親が子を愛するように、自分が痛んででも幼子を愛し大切にする心こそ、神が人類に与えた本性であり、人類の救いの鍵であることを教えられた。
またイエスは天から降られ受肉されるが、受難と死と復活を通して、天に帰って行かれる。この復活の昇天の神秘は、人の命が永遠とつながること、神の命に参与することを教える神秘である。
イエスの誕生を、21世紀の世界に具体的に生き、示すのは司祭たちの使命である。イエスが天から降られ、受肉されたように、司祭たちも限りなく降ることが求められる。降るとは自分を空にすることであり、最も小さくされた人と共に歩みながら、かれらを聖化し、力づけ、本来の力を回復させながら生きることである。イエスは受肉された。ゆえに司祭は人々と共に傷み、人々に聞き、人々共に祈り、考えるように招かれている。
またイエスは乳飲み子として生まれたので、司祭は神の愛、自分を痛めても無条件に相手を生かす愛、自分は損をしてでも、相手を神に出会わせる愛を生きる人である。また同時に人々の心の中にある《無償の愛》の力を引き出し、育てる使命がある。
さらにイエスがマリアとヨゼフの間に来られた。そしてマリアとヨゼフはイエスを迎えるために全生涯の奉献という命がけの覚悟に生きた。 まずイエスを迎える準備をするのは司祭自身である。司祭はマリアとヨセフの全奉献の模範にならい《命がけ》で、イエスを受け入れる愛の熱意を持つはずである。 またマリアとヨゼフがお互いを思う相互愛の中で、乳飲み子イエスを受け入れられたように、教会における司教と司祭、司祭たち相互、司祭と信徒の相互協働を大切にすることも必要であろう。 また特に司祭は愛がまず家庭において育まれることに留意し、各家庭への特別の配慮にも気を付けるべきであろう。 それが主の降誕を準備することにつながることだろう。
<完>
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