パウロはコリントの信徒への手紙の中で言う。「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。」(1コリント15.14-15)キリストの弟子たちは「キリストの復活」体験した。そしてパウロも「復活したキリスト」に出会ったようである。(15.8;9.1;使徒9.3-6) キリストの処刑の後、ユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけて(ヨハネ20.19)隠れていた弟子たち、そしてティベリアに戻り、かつてのように漁に出かけた弟子たち、彼らは復活したイエスに出会った。いや復活したキリスト自らが彼らの前に現れた。そして聖霊を受けて(使徒2.3)からは、迫害を(使徒4.17)恐れず大胆に(使徒4.13)イエスの復活についての証人(使徒2.32)として人々に語り始めた。ペトロとヨハネは民の指導者ならびに長老たちを前に「われわれとしては、自分の見たことや聞いたことを、話さないわけにはいきません」(使徒4.20)と述べ、キリストの教えとその存在の神秘を心からあふれ出させる。恐れを知らない宣教力である。
キリストの死後、人々を恐れ、おびえ隠れていた使徒たちが、これほど大胆になったのは、復活したキリストとの生き生きした出会いがあったからである。その初めは「空の墓」の体験である。
現代、キリスト教の宣教は困難に直面している。何かがブロックされキリストの言葉がスムーズに人々の心に浸透しない。キリスト者なら誰もが「今何かがおかしい」と感じているが、それが何なのか分からないでいる。こういう私たちに使徒たちの「空の墓」の体験は、何か示唆するものがあるのではないだろうか。
通常、先進国と言われる国々で、特に日本のように「平和」で「豊か」で「自由」な国においては、多くの人々にキリストは必要とされていない。「復活」「永遠の命」「死後の命」というものは独断的な気休めに過ぎない。死後は何もない、「死とは自然に帰っていくこと」と捉えるのが一般的である。
キリストの時代にも復活を信じない(マタイ22.23)人々がいたし、パウロもそういう人々と向き合った。それでも使徒たちはキリストの復活を人々に力強く伝えた。確かに使徒たちと今は違う。経済、科学、医学、思想、宗教学、聖書学、芸術などの分野でも大いに進歩し、かつては「信じる」対象であったもの(自然現象など)が、今では科学的に解明されているもの多々ある。キリストが行った種々の奇跡なども今現在の医療科学によってかなり解明されるだろう。こういう時代、それでもなおキリストを信じる意味があるのか。
人が生きることは昔も今も変わらない。人が生きるときに、命の力を自然から汲むのも、昔も今も同じである。人が自分で自分の存在の原因になれないも、昔も今も同じである。人が生かされて生きるのも、昔も今も同じである。
私たちは人間が生きるということにおいて、質的転換が必要ではないだろうか。 今の物、欲、力の世界で生きるだけで、満たされるのだろうか。今の生き方で「ありがとう」「おねがいします」「ごめんさい」「はい、喜んでしましょう」「お疲れさま」などということば、常時溢れている世界に住んでいるだろうか。日々が喜びを感謝の内にいるだろうか。どうしたら命の質をあげることができるのだろうか。
「キリストの空の墓の体験」ではないか。今までの価値観、見方を変えること。自分が当然と思っていることを変えることではないか。弟子たちは復活の意味が分かっていなかった。死んだキリストの肢体を包んでいた布のみを残し、恰も肢体のみ抜き取られ、しぼんだような形で残っていた布を見た使徒たちは「見て、信じた」。初代教会の人がキリストの復活体験をし、復活したキリストの肢体を表現しようとするとき、「肢体がなかった」経験であった。それは「取り去られた」(盗まれた)かもしれないが、弟子たちには分からない。ただキリストが取り去られたと聞いた弟子たちは走った。そして確認したがイエスの肢体はなかった。「どこに置かれたか分からない」経験であった。人間的空間かあるいは別次元に置かれているのか分からない体験であった。通常の時空観のもとでは「どこに置かれたか」分からない事だった。それはまさに空の体験であった。
空の墓。すべてはここから始まる。本物のキリストの発見は空の墓の体験から始まる。通常の時空観では謎のままとなるキリストの「取り去られ」経験。弟子たちにとっては、この経験はキリストとの出会いの新たな経験となる。今までのような仕方でキリストに会うことは出来ない。新たな形でしかキリストに会うことはできない。弟子たち自身、「空の墓」に走り、「空の墓」を前に身をかがめ、そして「空の墓」に入る。すなわち自分自身が身を丸くして「空」にならなければ、空の墓を理解できないし、復活したキリストに出会うことも出来ないのである。
現代、司祭たちが立ち帰る所は「空の墓」体験である。自ら空の墓を求め、身をかがめて空の墓に入り、そこで新たな次元でのキリストを理解することである。この世界の富、物、快、欲、力の全てから、空となる時、新たな命でキリストを生かすものとなる。 司祭がこの世界に対し「空になる」ことなしには、復活したキリストを自分の中に生かすことはできないし、復活したキリストを人々の示し、感じ取らせることもできないであろう。 <完> |