61~ / 41~60 / 1~20
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No40
狼の群れの中に
(聖マリア修道女会      
シスター小田切智惠子)
マタイ10:16-23
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No39
「精一杯の献金を」
(聖パウロ会 ブラザー井手口満)
ルカ21・1-4
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No38
「復活を生きる司祭、修道者」
(日本カトリック神学院 大山悟 p.s.s)
ヨハネ20・19
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No37
「司祭と悔い改め」
(日本カトリック神学院 大山悟 p.s.s)
マタイ4-17
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No36
「救い主の降誕の神秘と司祭」
(日本カトリック神学院 大山悟 p.s.s)
ルカ2.8-17
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No35
「司祭とロザリオの黙想」
(日本カトリック神学院 大山悟 p.s.s)
ヨハネ19.25-27
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No34
「わたしの兄弟、姉妹とは」
(日本カトリック神学院 大山悟 p.s.s)
マタイ12.46-50
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No33
「イエスの御心と司祭」
(日本カトリック神学院 大山悟 p.s.s)
ヨハネ19.33-35
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No32
「父親-天の父の原風景」
(イエスのカリタス修道女会   
Sr.中田)
マタイ20.1-16
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No31
「司祭と「空の墓」体験」
(日本カトリック神学院 大山悟 p.s.s)
ヨハネ20.2-8
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No30
「時のしるし」
(カトリック関口教会 藤倉彰三)
マルコ1.1-8
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No29
「見よ、神の子羊だ」
(日本カトリック神学院 大山悟 p.s.s)
ヨハネ1-35
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No28
「ありのままで」
(聖マリア修道女会     
シスター小田切智惠子 )
ルカ 10・21 ほか
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No27
「命への奉仕者」
(日本カトリック神学院 大山悟 p.s.s)
ヨハネ6-51
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No26
「召命と新生」
(日本カトリック神学院 大山悟 p.s.s)
ヨハネ3.3-5
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No25
「小さな花を咲かせます」
(大木聡)
イザヤ書55.8-11
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No24
「私は主を見ました」
(聖ウルスラ修道会 石井晴美)
ヨハネ20.1、18
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No23
「道を歩み続ける」
(聖パウロ会 ブラザー井手口満)
2テモテ4.7-8
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No22
「獄中からのプレゼント」
(イエスのカリタス修道会 Sr.松山)
マタイ25.34-40
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No21
「聖母のフィアトに倣って」
(サレジアンシスターズ Sr.赤木純子)
ルカ1.26-38
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No1~No20

 ≪神のいつくしみの年≫の四旬節が始まった。教皇フランシスコは、「この聖年の四旬節を、神のいつくしみを祝い、また実践するための集中期間として、深く味わいながら過ごす」ことを求める。また人々を悔い改めの具体的しるしであるゆるしの秘跡に招く司祭が「御父のいつくしみの真のしるしであるように」強くもとめている。

 ≪悔い改め≫とは心を回すこと、つまり心の方向転換である。いままでの自分の生き方、見方、考え方を捨て、質的に新しい見方、考え方生き方をすること、自分中心のあり方から、神中心のあり方に生きることである。私たちは常日頃「自分が」「自分の力で、」「自分のために生きる」という生き方をしている。この自分の力で自分のいのちのあり方を決定し、人生を構築する生き方は、主体的、自主的、自立的、自由な人間にとっては本来の姿である。人間は確かなものに基づき確実な生き方を求める。ゆえに主体的、自立的人間にとって、自分のいのちを他に任せることは容易ではない。自分にとって明晰で確実な生き方を手放すことは容易ではない。

 人は神を明晰判明には認識できない。たとえ神自体が明晰判明な方であっても、人間は神を完全に十全にとらえることはできない。人間は自分の知性によって、神が「何であるか」を分かることができるが、その神を対象的に認識し把捉したと思うそのとき、神はその認識から滑り落ちていく。

 このような神に自分のあり方をゆだねていくことができるのだろうか。それこそ神はいないにも関わらず、あたかも在るかのように思い込み、自己暗示しているだけと批判されるのではないか。弱い人間が、直面する困難や苦しみを乗り越えるために、神という完全像を措定し、その架空の像により頼んで安心しようとしているだけではないのか。

 しかしそれでも教会は神中心の生き方を求める。神に自分をゆだねて生きることを求める。それは≪人間が自分の存在の原因にはなれず、存在は頂きもの≫、すべてのものが「神から創造された」という立場をとるからである。教会は緒学のように現象する生の現実を前提に、そこからどう生きるかを教えるのではなく、人間が生きている現実のそのものの根源となる力(存在因)に目を向ける。つまり「生かす力」に目を向け、「生かす力」に自分をゆだね、「生かす力」によって生きるために、「生かす力」から頂き、支えられている自分の力を使うのである。このような生き方が「神に信頼する」生き方である。

 自分が有限で不完全、無力存在だから、その弱さを克服するために、その対極にある無限、永遠、完全、全能という架空存在としての神を措定するのではない。自分が生きている現実から、その現実に存在を与え、支えている根源的、究極存在を認め、そこにいのち、知力の根源を認めるのである。

 自分の力による生き方から、すべてに存在を与え生かす根源的力に信頼し、その力に自分をゆだねて生きる生き方への転換が「回心」「悔い改め」と呼ばれるのである。

 あらゆるものの存在の根源である神に心を向け、その神から力を汲みながら生きるとき、すなわち悔い改め回心する結果、 もはや自分の力に頼り自分の力だけで生きるのではなく、 生かされて生きていることに気づく。自分を支える力が自分の内奥に働いていることを感じるようになる。 そして自分を取り巻くあらゆるものが、私を生かしていることを覚知し感謝するようになる。すべてを生かす根源的力によって、生かされていることを知った人は、自分の心に安心とゆとりを持てるようになる。今、永遠から力を得て生きていることを覚知するからである。こうして神によって永遠から生かされることで、神の愛に参与し、神の愛を生きるものとなる。すなわち他に対して「愛とゆるし」「正義と平和」に生きるものになるのである。

 ところで司祭は今、そこに《キリストを現存させる人》であるから、キリストがそうであったように御父なる神と深く一致し、常に神から力を汲む人であり、神の御心を十全に生きる人である。この司祭はキリストに倣って人々を回心に導く人、回心を促す人であり、回心を教える人である。同時に司祭は人間であるので、回心の模範を示す人、回心を共有する人である。回心の過程を共に歩み、回心の恵みを共に味わう人である。

 回心は新たな生き方、新たな視点に方向転換することである。存在の根本的基盤を替えることである。それは生活の一新を意味する。しかし日常の生活を全く変えてしまうことは容易ではない。
 回心の方法には、一大決心によって、あるいは外からの大きな衝撃によって、根本的に変わる場合もあり得るが、通常の場合は、軸足を変えること、つまり片方の足から、他の方の足に重心を移すことで、体の向きが変わるように、自分の重きを自分中心から、他中心そして神中心に移すことではないだろうか。これによって人は、自然に神の方に向くようになる。これが無理なくなされていく回心であろう。

 四旬節の回心のよびかけは、まず司祭に向けられている。四旬節は司祭の霊性を原点に戻すよい時であることを自覚し、有意義に過ごしたいものである。
<完>