ここのところ毎日、ミサの福音でヨハネ福音書の告別説教が読まれています。 生前、イエスは「私の父」、「あなた方の父」とは言っても、ご自分と弟子たち、あるいは会衆を含めた意味で「私たちの父」とは語られませんでした。イエスは、ご自分と父との関係と、私たち人間と父との関係をめぐって微妙に区別しておられたのでしょうか?ヨハネ福音書の告別説教(13~17章)を読むとますますそんな気がしてきます。
ヨハネ福音書ではありませんが、私の好きな次の聖書の箇所は、マタイ福音書20章、いわゆる「ぶどう園の労働者」のたとえです。この箇所には父親の愛情があふれていると思います。前後の文脈から考えて、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」という定型句にはさまれているところから、まさにそういう話しなのだと解釈されます。受難を前にしたイエスが最終的、究極的な教えとして諭したかった内容なのだとも理解できそうです。しかし私としては父親の愛(それは天の国の極意ということです)について語っている箇所として読みたいと思います。
このたとえでは一見、不公平に見えるぶどう園の主人の態度が問題になるのですが、果たしてそれは本当に問題なのでしょうか?いつか中田家の姉妹で亡くなった父親について語り合っていたとき、この聖書のたとえばまさに私たちの父親の姿だという話になり、ぶどう園の主人の態度には納得がいくという結論に達しました。私たちの父親ならおそらく同じことをしたであろうというのが娘たちの共通した意見でした。つまり娘の条件のいかんにかかわらず、父親としてできる最高の愛を娘一人ひとりに捧げたいという父親の思いをその福音書の箇所の中に見たのです。そう考えると、このたとえはぶどう園の主人の態度が問題になる話だと理解することができません。
さて、ここでこの父親の注いだ愛とそれを受け取った人の召命・あゆみに目を向けたいと思いますと言っても、このたとえにはその後の労働者のことについて何も言及されていないのでわかりません。ただ言えることは、天の御父は一人ひとりにそれぞれ異なるそして、ご自分にできる最高の恵みをもって招かれるということだけです。一人ひとりがそれぞれこの御父の愛を悟るとき、いただいた1デナリオンの用い方も変わってくるのだと思います。「固有の召命」とは何かとよく言われますが、私はこの与えられた恵みとその応えるその関係こそが私たちに与えられた「固有の召命」の実体だと思います。神からの一方的な招きだけではなく、それに対する人の応答が「固有の召命」なのだと思います。
ところで、幼児期の子供にとって母親は情緒の面からみても全面的な依存の対象で、その後の人格形成に大きな影響を及ぼす存在であることを否定する人は誰もいないでしょう。そして父親はというと、社会を対象化するために最初に出会う存在だと言えます。健全な社会性を身につけようと思うなら父親との健全な関係が大切です。赤ちゃんにとって初めて出会う、完全な他者、つまり社会が父親だからです。だからある人は、父親は特別にすばらしくなくてよい「平凡な父親」が一番だと言います。
個人の歴史を通して、家庭、社会というかかわりの中から導かれる召命の恵み、それは一人ひとりにとってまさに固有の召命ですが、私の場合も特別な出会い、召命の道がありました。しかしその道のレールには両親とのかかわり、とりわけ父親との関係があることを理解しています。 父親に手を引かれて雨の日も風の日も、寒い日も早朝のミサに通った幼少の頃の父との思い出は、結局、私の天におられる父親のイメージを作りあげました。父親のあの手のぬくもりと「あの大きな存在」こそが、どんな難しさにあっても奪うことのできない神とのかかわりの原体験になったからです。私にとって父親とのそのような時間、空間はまさに天の父の原風景です。マタイ20章は天の国の論理、父の愛にあふれたみ心を当時の社会状況を背景に如実に表現していると思います。
父性の不在が叫ばれて久しいこの現代、教会に人が、若者が寄り付かないのはそういう家庭における父性の不在とも無関係ではないのかもしれません。父親を通して、あるいは家庭の中で、父親にかわる父性との出会い、それはまさに存在の根っこのようなものを体験していれば神への憧れも生じるのではないかと思います。ついでに言うなら家族の団欒も「存在の根っこのような体験」のひとつだと言えるような気がします。
私たちはいつも見えない神をこの世のしるしを通して聖霊によって体験しています。このような体験によって人は、天の父の愛は私たち一人ひとりに丁寧、かつ完璧にそして永遠に向けられていることを信じようになるのだと思います。私にはマタイ20章に書かれているぶどう園の雇い主の姿からそんな神が見えてきます。 <完> |