「見よ、神の子羊だ」+++
司祭の使命はすべての人をイエスに招くことである。すなわち全ての人にキリストを伝え、キリストと出会わせ、キリストから今を生きる力を受けるように導くことが、司祭の使命である。 洗礼者ヨハネは「見よ、神の子羊だ」と言って、弟子たちをキリストに向かわせる。
いつの時代にあっても司祭たちがなすべきことは、「見よ、神の子羊だ」といって、キリストを示すことである。その時代を生きる人たちの中には、キリストを必要とする人、キリストを必要としない人、キリストに無関心な人、キリストへの嫌悪感を持つ人たちがいる。しかし誰に対してもキリストを示せることが、その時代の司祭たちに求められている。
キリストを必要とする人は一様ではない。困苦欠乏に直面している人、悲しみや孤独の中にある人、豊かさの中にあっても自分のあり方が分からない人、戦争や分裂、仲違いの中で命の危機の直面している人、精神も心も身体も共に困難な状況に投げ込まれている人など、多様な人々がキリストを必要としている。キリストを必要とする人たちのニーズの質は多様である。これらの人々にキリストを示し、キリストと出会わせることが、その時代を生きる司祭たちの使命である。
またキリストを必要としない人たち、キリストに無関心な人たちがある。かれらはキリストを求めないが、それでも司祭たちは、かれらのそばで、キリストの心に生き、キリストを示し続ける必要がある。人の生は刻々と変わる。今は良くても、次の時には存在の基盤を全て失い、喪失と孤独、無力の現実に投げ出されることもある。 今、キリストは不要でも、次の時にはキリストを必要とする場合もある。
さらにはキリストを嫌悪する人たちがある。かつてパウロがそうであったように。かれらはキリストの教えが自分たちの価値観に合わないばかりか、自分たちの価値観を否定するかのように感じている。 キリストは自分たちが自由に生きるために、邪魔になるばかりか、キリストとは相容れないのである。それゆえにキリスト教を積極的に否定し迫害もする。かれらを前にしても司祭たちはキリストに生き、キリストの愛とゆるしを示す存在である。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44) 「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」(マタイ18:22) そして何が真であり正義であるかを教える使命がある。かつてピラトの前に引き出されたイエスは述べた。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」(ヨハネ18:37) 司祭たちはこのイエスの姿をこの世界で示し続ける。またパウロは世の悪に対するために「真理を帯として腰まわりを堅め、正義の胸当を身につけてしっかり立ちなさい」 (エフェソ6.14)と言われる。どの時代にあっても司祭たちは、与えられた状況の中で常に真理と正義、愛とゆるしを生き、伝える人である。
キリストを示せるものとなるために+++
司祭のアイデンティティはキリストをこの世界に、その存在、その姿を通して現存させることである。 それほど司祭はキリストを意識し、キリストとの親しみに生きるのである。御父に従順であったキリストの生き方に学び、全面的奉献に生き、キリストと共に人々のために祈りを捧げ、キリストの言葉を黙想し味わい、キリストの贖いの生贄と愛の記念を今、具体化し、常にキリストから力をくみ続けるのである。
「来なさい。そうすれば分かる。」+++
洗礼者ヨハネの二人の弟子は「見よ、神の子羊」として示されたイエスに従っていく。イエスが泊まっているところを知りたくて、イエスに従う弟子たちに、イエスは「来なさい、そうすれば分かる」言われる。 洗礼者ヨハネの「見よ、神の子羊だ」という言葉が、自分の弟子たちをイエスに向かわせ、イエスに出会わせ、イエスに従わせることになる。
今を生きる司祭たちの使命は、全ての人をイエスに出会わせることである。 「来なさい、そうすれば分かる」とイエスに言わせるほどに、人々を力強くイエスに向かせることである。
<完>
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