命の自覚 +++++
悲しいかな、イスラエルとイスラム原理主義組織「ハマス」とは泥沼の報復を繰り返している。一時的に和解と平和を期待できるように思える時もあるが、また戦争へ逆戻り。憎しみをなかなか消せないでいる。人間が憎しみから自分を解放するのは至難の業である。
日本をとりまく諸事情も、戦争への道を余儀なくされているようにも感じる。未来志向ではなく、過去へもどり、憎しみを呼び戻し、報復心を駆り立てている。お互いに一歩下がれば、和解と一致はきわめて簡単なのに、なぜ過去に戻り憎しみを増幅させるのか。政治家は否定的競争原理に負けている。
戦争以外にも、身近なところには「死」の力が潜んでいる。事件による死、事故による死、災害による死、病気による死、自分で命を立つ自死、寿命による死など。
死の現実は逆に「命」を見つめさせる。「命」とは何か。自分の手を見つめながら、独り言をいう。「私は生きている。この空間とこの時間に、他の人と共にここに存在する。」
私の命はどこから来たのか。私は私の命の原因ではない。父と母から命を頂いた。しかし父と母は誰から命を得たのか。それを無限に遡及していくと、私の命はどこから始まったのかと、あらためて不思議に思う。「私の命は頂きもの」「ありがたい」という思いに落ち着きそうである。私に至るまでの命の連綿を支えてきた種々の状況、環境を思うと全てに感謝せざるを得ない。
私は「物」ではない。生きている命である。考えることのできる命である。自分を超越して時空を越えて自分を展開できる、ある意味で普遍的な知的命である。私は今ここにいながら、自分の存在の根源にまでさかのぼり、また自分が存在しない未来に自分を置くことの出来る知的な存在である。
私は自分の善を求め、同時に他者の善を求める。そして自分が痛んでも他者を生かそうとする愛の力を持ついのちである。
命の明暗 +++++
知的命である人間は善と悪、光と闇、愛と憎しみ、ゆるしと報復など二面を生きる存在である。欲と競争を生きる原理とする人間は、勝ち-負け、優-劣、上-下、強い-弱いなどの差違を設け、相手を見下し、支配し、軽視、蔑み、相手を否定し殺そうとする。知的力によって相手を陥れる奸計を行うゆえに人は容易に悪魔的存在となる。
他方では、他者を認め、相手に聴き、支え、肯定し、自分が痛んででも相手を生かそうとする存在でもある。
命の力の回復 +++++
欲と競争によって生きる人は容易に悪魔的となるが、しかし「生き」「生かされ」「永遠につながる」実存性を強く意識することにより、すなわち命の永遠的根源に心を開き、そこから常時、命の力を汲むことにより人間本来の姿(神の似姿)に生きることもできる。その具体的、究極的あり方が「キリストの御体と御血によって生かされる」ことである。キリストの御体と御血を命の源として頂くことにより、永遠の命に生かされることになる。それはキリスト者の信仰である。キリストはご自分の御体と御血によって人を生かす聖体の秘跡によって、人の命の特徴を明確にした。すなわち、人の命は「生かされるもの」であり、「キリストによって具体的に命の力、しかも永遠の命を得る」のである。キリストに御体と御血に養われる者は「他者を生かす(ゆるし愛する)者」となり、そして今、ここでキリストからの力を受けて「命に奉仕する者」となるのである。
命への奉仕者 +++++
キリストの御体と御血によって養われる人は、キリストからくる命の力によって「生かされる者」であり、キリストと強く「つながっている者」である。キリストとの「つながり」によって、キリストの力を、具体的に「受けている」のであるから、人を今そこで、キリストの力を「生きる者」であり「具体化する者」である。キリストが人の命に奉仕したように、「キリストに生かされる者」も「命に奉仕する」者となるのである。キリスト者は誰もが「命への奉仕者」として呼ばれているのである。<完>
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