待降節第二主日の福音は、洗者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を述べ伝えた。と、このように現しています。
現代、わたし達が生きるこの世界も「荒れ野」そのもの、2000年後の今、このみ言葉が鮮烈に響いてくるのはどうしたことでしょう。
今年のノーベル平和賞にインドのカイラシュ・サティヤルティさん、パキスタンのマララ・ユスフザイさんのお二人が受賞しました。事前の候補として教皇フランシスコや日本国憲法も取りざたされたようですが、今年の結果はとても時宜に叶ったものと感じさせられました。それは、わたし達一人ひとりが夫々「平和の道具としての使命」を心の中に刻まれて生まれてきたことを知っているからではないでしょうか。まさに、わたし達は一人ひとり、この現代の荒れ野で叫んでいますが、その叫びはこのお二人の具体的行動力を伴った声とは比べものになりません。
教育のために立ち上がり、武装勢力に撃たれて九死に一生を得てなおも初心を貫くマララさん、抑圧されている児童と青年に対して寄り添い、その教育のために貢献し続けるカイラシュさん、どちらも、政治の不毛と貧困の最中にありながら、身の危険を顧みないで主張し行動する姿は「現代と言う荒れ野に向かって叫ぶ証人」といえます。 2000年前、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫んで人々に悔い改めの洗礼を授けたヨハネの姿に重ね合わせ、改めて、わたし達に回心を促がされていることを感じずには要られません。
二人の受賞者は夫々インド、パキスタンと開発途上国の住人。他方わたし達の住む日本は先進国と位置づけられて、物が溢れている国の住人です。わたし達の日本は先進国の仲間入り後、永い間、途上国の貧困対策や子供たちの教育費について援助を続けてきた実績を誇りに感じて来ました。この間、日本人は自信を持って生きてきたものでした。然しながらこのところ特に子供から青年達の目に翳りを感じることがあります。かえって援助されている国の子供や青年層の目の輝きに、生きる喜びや力強さを感じるように思えるのです。 このことが何を意味しているのか、わたし達は気付き始めています。
アメリカを始め先進各国は自由主義経済の行き詰まり感の中で疲弊し心のゆとりを失い途上国への援助にも翳りがさす、そのような中、まるで条件反射するかのように、民族主義、一国主義が台頭し始め、キナ臭さを禁じ得ない頑固な現実が広がっています。
このような現実世界にあって「ノーベル平和賞」の二人は、まるで預言者イザヤの書を彷彿とさせるかのように「荒れ野から叫び」自分を捨てて他者のために立ち上っています。そのいのちを生きいきと示し続ける姿は「時の徴」を感じます。
マララさんは平和賞スピーチで「無学、貧困、そしてテロリズムと闘いましょう。本を手に取り、ペンを握りましょう。それが私たちにとって最も強力な武器なのです」と、そして「私には二つの選択肢しかありませんでした。一つは、声を上げずに殺されること。もう一つは、声を上げて殺されること。肌の色、言語、信仰する宗教は問題ではありません。互いに人間として尊重し、尊敬し合うべきです。」
今、世界中の人々と共有したい価値観がここにあります。
キリストの平和がわたしたちの心の隅々にまで、行きわたりますように!
<完>
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