6月はイエスの御心の月である。教会は「十字架上でなくなられたキリストが槍で貫かれた心臓から生まれた。」すなわち「イエスの開かれた胸から流れ出た血と水によって」教会が誕生したと教える。(『カトリック教会のカテキズム』766)。教会はキリストの胸から流れ出た血を聖体(御体と御血)、水を洗礼の水と見なす。このキリストのそこから血と水が流れ出た胸の傷を思い、キリストによる命がけの贖い(救い)のわざを黙想し、聖体(御体と御血)の恵みと水による洗礼の神秘を意識的に生きるのが「御心の月」である。
イエスは人類の救いのために命を賭けた。イエスは人を神の子とするために、人類を神の相続人、キリスト共同の相続人(ローマ8.17)とするために命を賭けた。神の律法を守り、神の民であるだけでは限界あった。豊かさに満たされるとき、神を忘れて(申命記31.20)道を踏み外すのである。イエスは言う。 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」マタイ(6.24)
キリストがこの世に来られたのは、「自分の意志を行うためではなく、お遣わしになった方(天の父)の御心を行うためである。」(ヨハネ6.38)「父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネ6.40)
キリストは人々に幸福(=永遠のいのち)をもたらすためにきた。人が永遠の至福を得るとは、神の本性(神の命)に参与することである。言い換えれば神の子となることである。イエスは救いのわざによって人を神の本性に参与させる。
人が神の本性に与るためには、神への信仰を持つだけでは不十分である。人の存在全体が神の命に与り得るものに変えられなければならない。 まず人の身体が神の命に与るものとなるために、神の子であるキリストは受肉し、それによって人間の身体を神の本性に与り得るものとなった。
また肉体存在である人間は時空に限界づけられた生成消滅の原理の中にある存在である。獲得と所有、喪失を繰り返しながら、ついには喪失にて全てを終わる存在である。種々の喪失は苦しみ、悲しみ、つらさ、困難、孤独などの痛みを伴う。こうした喪失や痛みは肉体的存在である人間から不可分離であり、人間にとって不可避なことである。喪失やそれに伴う痛みは存在の不完全性、欠如、また人の罪からくるものであるから、神の本性とは相容れない要素である。喪失とそれにともなう痛みは人間の生の現実であるが、そのような人間が神の本性に与るためには、これらの喪失やそれに伴う痛みが聖化され、永遠の命を得るために意味のあるもの、必要不可欠な要素となる必要がある。この喪失とそれに伴う痛みを引き起こす原因そのものが無力化される必要がある。人間の存在の有限性、不完全性はある意味でキリストの受肉によっても克服されるが、喪失やそれに伴う痛みの原因となる罪の克服(勝利)は、イエスが実際に人の罪によって苦しみ殺され、その苦と死に対する勝利、つまり復活によって成就するのである。
イエスが磔刑によって死んだのは、「自分は神の子である」(ヨハネ19.7;Cf10.36)と言ったからであり、祭司や律法学者、ファリサイ派の人々などユダヤ教の指導的立場の人たちと向き合ったからである。 自分の権威を振りかざし、素直に賢明に他に聞けず、自分の考えに固執し、嫉妬し、偏見によって他人を判断する人間の弱さ、罪深さがイエスを十字架に付け殺したのである。
こうしてイエスは自ら十字架を担い苦難を受けることで、種々の喪失やそれに伴う苦しみ、痛み、十字架を聖化されたのである。 そしてイエスはその受難によって死ぬが、 復活することによって、人間の罪の働きを無力化し、人間に永遠の命の次元を開いたのである。
このようにイエスの受肉、苦難、死、復活によって人は神の命に参与できるもの、神の子となる資格が整ったのである。
そして人が神の子となり、神の相続人になるためには、洗礼を受けて神の子となるという意志を表明し、また神から力=聖霊の恵みをうけて、神の子にふさわしく生きること、すなわち日頃から神の御心を具体的に生きることが必要である。
人がこの世界で具体的に「神の子」という自覚を持って生きることは容易ではない。豊かさ、平和、自由の中で、神を忘れ自分の力に過信し、自己中心となり、自分の欲求を追求する。他人を無視、軽視、否定して自分の欲を満たそうとする。そこに自分の欲と他人の欲がぶつかりあい争いが生じる。人類はこれまで繰り返し、このような対立を繰り返してきた。
人が神から離れ、神を忘れるとき、人の心は荒んでいく。自分の欲の目が常に外に向き、自分を見る時を持つことができず、自分を失っていく。多くのものを所有しても安心できず、欲は欲を生んでいく。人間はもはや悪-知恵をもって自分の欲を追求する存在となっていく。キリストは人間に神の子となる資格を回復させたが、現代人は神から離れ、人間の在る得る姿を知ることができず到達できないである。
今の時代にあって、自らキリストの心に生き、キリストの心を他に教え示すのは司祭たちである。今の人たちがキリストの御心を知らないとすれば、司祭たちの働きの場、宣教の使命が大いにあるということである。キリストは命がけで、人に神の子となる資格を回復した。
キリストの、人を神の子とする救いのわざは「命がけ」であった。そのわざはキリストの胸の内奥から溢れてくるものであった。司祭たちも自分たちに託された救いのわざを意識し、「命がけ」で、この時代、ここに、その救いのわざを具体化するべきである。司祭たちがキリストから引き継いでいる「救いのわざ」は、心の内奥から流れ出るものであり、全ての人の心の内奥に響くものである。イエスの御心は知られるだけでは十分ではない。その御心が感じ取られ、その人の生きる力となるはずのものである。
今の時代に、キリストの御心とは何だろうか。神離れの現代、「神の子としてのあり方」が第一に強調されるのではないだろうか。 それはキリストが新しい契約によって確立した内容である。キリストの姿を生きる司祭たちは、人々が神の子となり、神の子として生きるように、自らの模範を通してこの世界に神の子の姿を示す必要があるように思う。
また平和で、豊かで、自由な現代にあって人間が欲の中に埋没し、人間関係が希薄化し歪み、自分の存在基盤を失う時代、神の愛による自他肯定が必要である。神による無償の、広い、深い「愛とゆるし」に包まれることがなければ、人間性は痩せ細っていくばかりである。言い換えれば、今を生きる司祭たち自らがキリストの心を心とし、関わるすべての人に神からの愛とゆるしを感じ取らせることができるなら、人々の人間性はもっと豊かになり活気づくのではないだろうか。
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