10月は「ロザリオの月」である。聖母マリアと共に、ロザリオの祈りに示されるイエスの救いの業の神秘を黙想し、イエスによる救いについて理解を深め、その救いの恵みを味わい、その救いの恵みに強められて生きるように心がけたい。
かつては司祭たちがロザリオを手にして教会の庭を歩いていた。その姿を見て子供たちは聖母信心への親しみを深めたものである。しかし今、ロザリオを手にして祈る司祭を見ることは希になった。最も容易で、最も身近で、最も深い祈りが司祭たちの祈りの姿の中に次第に見られなくなりつつあることは、カトリック信者にとっては、寂しく残念なことではなかろうか。
聖母マリア信心の励行について何かを述べるものなら、司祭の中にでさえ、極端なマリア礼拝に走ることを警戒する人、マリア信心に意味を見いださず嫌悪感を持つ人もいることだろう。またロザリオの祈りを否定しなくとも、煩わしいものとして押しのける人がいるかもしれない。
聖母マリアの存在は、キリストの存在との関連なしには意味をなさない。神の子救い主イエス・キリストを生み、育て、そのキリストと生涯、共に歩んだ母であったから、教会はマリアに種々の称号を与え崇敬するのである。
またキリストは死に逝く時、十字架の上から弟子に「見なさい。あなたの母です」と言われ、マリアを弟子に託し、彼らの母とされた。この時から母マリアは弟子たちにとって母となり、そしてキリストに従う者、特に司祭にとっても母であると教会は認識している。(Cf.『司祭の役務と生活に関する指針』68)
司祭にとっては、聖母マリアは母であり、最も身近でキリストを支えた奉献者であり、キリストによる救いの神秘にその生涯にわたって同伴した模範者である。司祭はその生涯を通してキリストによる救いの業を生きる人であるが、その身近な模範であり助け手になるのが聖母マリアである。キリストに深く関わるために、そしてキリストの心を心とする司祭であるために、マリアの取り次ぎと模範は不可欠である。
司祭がキリストの贖いの神秘とマリアの心に同時に触れうるのがロザリオの信心である。喜びの神秘、光の神秘、苦しみの神秘、栄光の神秘を通してキリストの贖いの業を、マリアと共に黙想するのである。キリストの受肉とキリストの宣教、キリストの受難とキリストの復活・昇天・聖霊降臨にまつわる種々の神秘を黙想しながら、キリストの贖いの業の理解を深め、キリストの贖いの業をそこに現前化する。すなわち二〇〇〇年前の贖いの業は、その黙想をとおして、今ここに信仰的に現前化される。信仰的現前化は単に抽象的、空想的なものではなく、永遠から今ここに働く神の力によるものであり、その神秘を黙想する人の心を霊的に強め活かし、キリストの贖いの目的である愛と赦し、正義と平和、命の回復へと人を動かすのである。
特に司祭はキリストを、今そこに現存化させる存在である。司祭が自分の姿を通して、キリストを映し出す者になるためには、繰り返し贖いの業を黙想し、現前化し、贖いの恵みに生きること、贖いの業から力を汲み続けることである。
このように考えると、マリアと共になす、キリストによる贖いの業の黙想は「司祭が司祭である」ため、また「司祭が司祭となる」ために不可欠であることが分かる。
この最も容易で、最も身近で、最も深いロザリオの祈りを日々大切にすることこそ、キリストとの深一致に至るための貴い方法、確実な道なのではないだろうか。
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