この場面を想像してみましょう。きっと、多くの参拝者が神殿を訪れ、神殿に据えられた大きな献金箱に献金をしています。当然、金持ちはたくさんの金貨を献金箱に入れるのですから、音も「ジャラジャラ」と大きくなると思います。その音は、周りの人にも聞こえ、「私は、これだけのお金を献金した」と知らせるように響きます。イエス様は、彼らが献金箱にどのくらい入れるのかを、ご覧になられていたというよりも、入れる人の様子をご覧になられていたのかもしれません。
さて、その中でイエス様は、やもめが献金するのをご覧になられます。やもめはどのような気持ちで、献金したのでしょう。他の金持ちの参拝者のように献金箱の真ん中に堂々と入れることは出来ず、隅の方に行き、こっそりと「2レプトン銅貨」を入れます。1レプトンは日本円にして約39円と言われますので、彼女は、約78円の献金をしたことになります。しかし、イエス様は、彼女が献金したわずかなお金を「あなた方に言っておく。この貧しいやもめは、他の誰よりも多く入れた。」といわれます。
周りの人は、「そんなはずがない。自分よりもこの貧しいやもめがたくさんの献金を出来るはずがない」と驚いたのではないでしょうか。また、やもめの方も「エッ、この方は何を言い出すの、私が入れたお金を見ておられたのかしら、恥ずかしいわ」と困惑したかもしれません。イエス様は、献金の額のことを言ったのではありません。その人がどのくらいの気持ちで、献金をしたかということを言われておられたのです。
さて、この箇所と「召命」がどのように繋がるのでしょう。「召命」は、私たち一人ひとりに与えられたおん父からの賜物です。そこには、能力があるから、知識が優れているから、財力があるからということは、全く関係ありません。大切なことは、一人ひとりが与えられた賜物をいかに生かして、忠実におん父に捧げるかということだと思うのです。 この貧しいやもめは、「2レプトン」という僅かな献金額でしたが、「生活費のすべて」を献金箱に入れました。私たちが受けた召命も同じではないでしょうか。
10人いれば、10通りの召命があり、いただいている賜物もそれぞれ違います。何も出来ない、能力も体力も周りと比べて僅かな人でも、その人に与えられた使命がありますし、能力も財力も知識もすべて豊富な人にもその人に与えられた使命があります。イエス様は、私たち一人ひとりが「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして」それぞれに与えられた「召命」、忠実に果たしているかということをご覧になられているのではないでしょうか。私たちは、自分に与えられたそえぞれの場という「献金箱」に精一杯の献金をすることが出来ますように、「召命」を与えてくださった主に祈って行きたいですね。
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