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みことばをともに No20
みことばをともに No19
みことばをともに No18
みことばをともに No17
みことばをともに No16
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みことばをともに No2
みことばをともに No1
みことばをともに_No.01
  叙階式の中でいろいろな徴がありますが、その中でも叙階者が司祭団から按手を受けるところは、とても印象深い場面ではないでしょうか。司祭団のお一人おひとりはこれから司祭になる人に対して、「これから私たちと共に司牧をしていきましょう」「おめでとう」「あなたも私たちの仲間です」などとそれぞれの思いの中で按手されているのでしょう。
  ある司祭からこのようなことを伺いました。「按手の時、人それぞれで、強く頭を押さえる方、ただ軽く頭に手を置く方、頭には触れないで手をかざす方といます。私は、それぞれの神父様の足を見ながら、この足は誰だれ神父様の足だと思ってしました。」と語ってくださいました。 叙階式は叙階者が、召命を受け神学校で学び、ようやく司祭になりこれからの夢、希望、あるいは、不安や心配などさまざまな気持ちで、これからの司祭としての一歩を踏み出す式と言ってもいいのかもしれません。
  聖パウロの手紙の中に 「あなたのうちにある恵みの賜物をないがしろにしてはなりません。 この賜物は、預言を通して、長老団の按手によって、あなたに与えられたものです。」(1テモテ 4・14)とあります。テモテはこの按手によって司牧者としての特別な恵みを与えられました。また、使徒たちがバルナバとサウロを宣教に派遣する際に「聖霊が、『私が二人のために決めておいた仕事を果たすために、バルナバとサウロをわたしのものとして聖別しなさい』と仰せになった。そこで、彼らは断食をして祈り、二人の上に手を置いてから、送り出した。」(使13・2~3)と書かれてあります。このように見ていきますと、今もなお教会での按手は、キリストの代理者である司祭が叙階者に聖霊の恵みを注ぎ、これからの司牧のために必要な助けを願う祝福といってもいいのかもしれません。

  さて、この按手から溢れる聖霊の働きは、これから新しく叙階される人だけではなく、叙階式に参加している人たちにも与えられているのではないでしょうか。私たちは、洗礼の恵みを受け信者として一人ひとり【司祭職】をいただいています。もちろん、司祭のように教会での司牧や秘跡を行うということはできませんが、信徒として福音宣教をするという特別な使命をいただいています。 ある司祭が「ミサの時に司祭が、ホスチアとカリスの上に手をかざして按手をします。これは、司祭がキリストの代理者として聖体を祝福すると同時に、御父が司祭とそのミサに参加しているすべての信者に按手の祝福を与えているのです。」と言われていました。
  叙階式での按手もミサでの按手も司祭の手を通して聖霊が下ると同時に、御父の按手をいただいているとするのでしたら、叙階される司祭だけではなく私たち信徒の上にも聖霊の恵みが注がれているといってもいいでしょう。 叙階式は、叙階される新司祭だけではなく、参加される皆さん、また、教会全体の上に御父の按手と聖霊の恵みが注がれているのかもしれません。 按手は、司祭はもちろん、私たち一人ひとりも聖霊からの恵みを受け、必要な助けと力をいただきながら、福音宣教に出かけていく恵みなのではないでしょうか。