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みことばをともに No20
みことばをともに No19
みことばをともに No18
みことばをともに No17
みことばをともに No16
みことばをともに No15
みことばをともに No14
みことばをともに No13
みことばをともに No12
みことばをともに No11
みことばをともに No10
みことばをともに No9
みことばをともに No8
みことばをともに No7
みことばをともに No6
みことばをともに No5
みことばをともに No4
みことばをともに No3
みことばをともに No2
みことばをともに No1

  “はっきり言っておく”で語り始められる御言葉が数多くある中で、この聖句は、齢70を迎える私には、主が十字架の死と復活、救いの本質を弟子たちに説き明かされたメッセージとして愈々胸に迫ります。2008年11月24日ペトロ岐部と187殉教者列福式に参加するため私は、これに合わせて企画された九州一円の、証し人所縁の巡礼地を巡る旅に参加した際、各地の記念碑に刻まれている御言葉がことごとく、この聖句であることに内心、得心させられたことが思い出されます。

  信仰年の今年、所属教会の地区会で企画した「聖体訪問の小さな旅」で、御殿場にある神山復生病院・記念館と墓地を訪れ、再び、同様の印象を深くしました。 同志社女子専門学部英文科を卒業した井深八重は長崎高等女学校の英語教師として着任した翌年の1919年、ハンセン病の診断により隔離入院、3年後の1922年になって誤診であるとが判明します。普通、誤診への怒りと隔離からの開放で、言い表せない感情が渦巻くところでしょう。ハンセン病は当時、激しい差別と偏見が存在する時代です。ところが彼女はハンセン病患者に献身的に接する院長ドルワール・ド・レゼー神父の姿から感銘を受け、病院初の看護婦となり、極貧状態の神山復生病院を婦長として献身的に支え、生涯をハンセン病患者の救済に捧げ尽します。八重の墓石には「ひと粒の麦」が刻まれていました。
  八重が、院長であるレゼー神父に見たものは何だったのでしょう。それは、レゼー神父の働きから醸し出される、「ひと粒の麦」の譬えの本質、真の召命の姿だったのではないでしょうか。 レゼー神父の生き方は文字通り「キリストに倣う者」として「ひと粒の麦」を彷彿とさせ「死ねば」は「命の輝き」を現していることに気付かされるのです。

  今、私たちは、第二バチカン公会議から50年の節目の時を「信仰年」の位置づけで、一人ひとりの信仰を問い直し、公会議の息吹を自身のものに出来たかを見つめなおす機会とするよう求められています。物質万能の価値観にまみれた私たちは、主の平和の道具とさせていただくために、立ち返る足場がここにあることを、ここに、私たちに求められているテーマである「霊的識別力」を想起します。また、信仰の証人となった日本の殉教者、神山でハンセン病者のために奉職し、真の信仰者の道を示した人々に主が備えられたものは真の識別力なのだと感じます。

  「ひと粒の麦」の本質を学び取らせてください。そして、わたしたち一人ひとりの内なるイエスを封じ込める、悪の霊と闘う勇気と力を願い求めたいのです。