61~ / 41~60 / 21~40
---------------------------
みことばをともに No20
みことばをともに No19
みことばをともに No18
みことばをともに No17
みことばをともに No16
みことばをともに No15
みことばをともに No14
みことばをともに No13
みことばをともに No12
みことばをともに No11
みことばをともに No10
みことばをともに No9
みことばをともに No8
みことばをともに No7
みことばをともに No6
みことばをともに No5
みことばをともに No4
みことばをともに No3
みことばをともに No2
みことばをともに No1

  「助けて、助けて!!」おぼれそうなったわたしの手を捕まえてくれた最初の人は、同級生の男の子でした。最初があると言うことは何度かあると言うことなのですが、私が溺れそうになったのは3度ありました。最初の時は、今思えば小学校一年生の夏、泳げなかった私は砂浜のほんの浅瀬にいたはずです。多分少し大きな波が来てひっくり返されたのでしょう。必死でしたし恐怖心にかられていましたから、立てば膝ほどもなかったと思いますが、その助の手がどれ程ありがたかったことかと今でも記憶に残っています。
  2度目は、小学校六年生の時、この時は結構深いところで潮の流れが早くなった時刻のころ、泳げなかった私は船のそばにいましたので危ないと言うことを思い出したのですが、時遅く溺れそうになり、もがいてももがいてもただ海の下の方に沈むだけ、その時わたしの手を捕まえては離し捕まえては離しして助けてくれたのは、すぐ上の兄でした。そのような出来事があってから10数年ほどは、何もなかったかのように過ぎて行きました。

  しかし、その間私の人生では大きな変化が起きていたのです。私は、シスターになるために修道会に入会し、順調に養成の課程を歩んで修練院という所におりました時に、3度目はやってきました。
シスターになれるまであと10ヶ月という時でした。海でなく川でもありません、自分の弱さとみじめさというドロドロとした自分自身の中での出来事です。もがき苦しみ「シスターになりたいけど、このようなみにくい私ではふさわしくない。」と一方的に思いこみ、ただただ沈んでいき退会の決意さえしていました。それは、夜のことでした。明日になったら修練長のところに行って自分の決意を申し上げようと思いながら悲しみに沈みどん底でした。聖堂に行ってご聖体の前に座り、当時私は聖書の通読をしていましたので、いつものように聖書を読もうと開いたところがマタイ福音書14章でした。そこには、ご存知のように湖上を歩かれるイエスとペトロの問答のところでした。
  「『主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。』 イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロが舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。」とありました。
  その時 「信仰の薄き者よ、なぜ疑ったのか。」というみことばがペトロではなく私に向けられたことばのように、ものすごい迫力で温かくやさしく憐み深い主イエスの声が響いてきました。 そして私も反射的に  「主よ、助けてください!」と思わず心から叫んで手を伸ばしていました。 涙がとめどもなくほほを伝い流れて行き、どのくらいの時間がたったのでしょう。 その時始めて自分が自分自身でいっぱいになり、その中に溺れていっていると言うことに気付かせていただいたのです。 しかももうかなり瀕死の状態でした。 しかし、その時私の手をとってではなく、捕まえて引き上げ助けてくださったのは主イエスでした。 ここで手を取るのではなく、捕まえてと言うことばによって深く沈んで重くなった私を引き上げ助けてくださったのです。
助けていただいた感慨深さに我を忘れていたことを、あらためて懐かしく思いだします。私にとってのこの時の主との出会いは、決定的なものとなりました。