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みことばをともに No20
みことばをともに No19
みことばをともに No18
みことばをともに No17
みことばをともに No16
みことばをともに No15
みことばをともに No14
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みことばをともに No5
みことばをともに No4
みことばをともに No3
みことばをともに No2
みことばをともに No1

  まだ、洗礼を受けていなかった頃、初めてこの聖書の箇所を読んだ時、どうして持っている物を手離さなければならないのか理解できなかった。今の世の中、イエス・キリストについて行く人なんているのかしらと人ごとのように思っていた。
その後、イエスと出会い、洗礼を受け、どんな形であれイエスに従って御父への道を歩みたいと考えるようになった頃、度々この箇所が目に留まるようになった。この金持ちの男とは私のことだったと思った。私も持っている物を手離すことができない。いかに私は多くのものにしがみつき、それらに自分をつなぎとめて生きているかを思い知らされた。イエスに従って行きたいけれど、このように完全に従うことはできないのだと悲しい気持ちになった。でも、その場を立ち去るのではなく、イエスの周りをうろうろしていたように思う。
  ある時、「そうだ、神にお任せしよう。私はただ『イエスに従って御父への道を歩んで行きたいのです』とだけ言おう。そうすれば、きっと神は憐れんで下さるだろう。」そう思った。

  それからしばらくこの御言葉は私の目に触れることはなかった。その間、イエスからの強いアプローチの声と、私の彼に対する思いが一致して修道生活に招かれていることを意識するようになっていた。その頃にはもうイエス・キリスト以外なにも要らない。イエス・キリストこそ私の唯一の宝と思えるようになっていた。そして、私の持ち物をすべて心から手離してもいいと思えるようになっていた。まさに「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」との御言葉は真実だと悟った。
あれ以来、確かに私の中で何かに執着することがなくなった。でも生活する上では相変わらずいろいろな物を持っている。ただそれは自分のための物としてではなく、神のため、他者のためのものとして持つようにしている。
  イエスの呼びかけは、恐らく私たちがこの世に生を受けた時からあるのだと思う。それに気づいた時、イエスから離れることなく、そこに留まりたいものだ。できなくても、わからなくても、悲しくても、イエスのそばにいたいものだ。そんな私たちを神は放っておくはずがない。永遠の命を受け継ぐ道は、イエスと共に御父への道を歩むこと。私たちが神に向かって目を上げさえすれば、必ず行くべき道に導いて下さるだろう。「神は何でもできるのだから。」