まだ、洗礼を受けていなかった頃、初めてこの聖書の箇所を読んだ時、どうして持っている物を手離さなければならないのか理解できなかった。今の世の中、イエス・キリストについて行く人なんているのかしらと人ごとのように思っていた。
その後、イエスと出会い、洗礼を受け、どんな形であれイエスに従って御父への道を歩みたいと考えるようになった頃、度々この箇所が目に留まるようになった。この金持ちの男とは私のことだったと思った。私も持っている物を手離すことができない。いかに私は多くのものにしがみつき、それらに自分をつなぎとめて生きているかを思い知らされた。イエスに従って行きたいけれど、このように完全に従うことはできないのだと悲しい気持ちになった。でも、その場を立ち去るのではなく、イエスの周りをうろうろしていたように思う。
ある時、「そうだ、神にお任せしよう。私はただ『イエスに従って御父への道を歩んで行きたいのです』とだけ言おう。そうすれば、きっと神は憐れんで下さるだろう。」そう思った。
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