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みことばをともに No20
みことばをともに No19
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みことばをともに No1
 

  「あなたがたはわたしを何者だというのか」。この問いはイエスがペトロに発したものであるが、今、イエスに従う人たちに、毎日、投げかけられ続けている問いでもあるだろう。キリスト者は自分のあり方を通して、その時代、その状況の中でキリストを現存させる使命がある。これがキリストを証することである。知識を伝えるだけでは不十分である。自分がキリスの教えに生きながら、キリストを自分の姿を通して、その時、その場で関わる人に、具体的に感じ取らせ得ることが必要である。キリストを感じ取らせないなら、キリストを証することにはならない。従って、キリスト者はキリストに生きるためにキリストが「わたしにとって誰であるか」をいつも確認し、明確な言葉で公言できるほどに、キリストとの親しさを深める必要がある。
  キリストについての理解の深まりは、いつもキリストに聴くことが始まり、キリストに確認することに終わる。キリストを理解し受け入れるのであって、自分の期待、自分都合にキリストを合わせるわけではない。

  ペトロはイエスと生活を共にし、イエスについて分かっていたに違いない。だから「あなたはメシアです」と宣言できたのであろう。しかしキリスト理解にまでは深まっていなかったようだ。人間イエスをみて、このかたこそメシア(救い主)と感じたかもしれないが、メシアとしてのキリストによる救いが苦しみと死を通してなされることは予想外だったようである。ペトロ自身が信じていたメシア観とは違っていた。
それゆえペトロは「イエスをわきへお連れして・・」説得する。共同体から引き離して、自分のメシア観をイエスに押しつけようとする。これに対してイエスは「サタン、引き下がれ」といってペトロを叱り、「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」という。人類の救いのために神から遣わされたメシアか、あるいは人間ペトロが期待するメシアか、この二つは大いに異なっている。しかし人はしばしば自分が期待するメシア像を作り上げてしまう傾向がある。キリストの身近にいる者たちさえである。
  キリストの宣教者であるキリスト者たち。しばしば自分の思いや期待を、あたかも神の望みであると思いこんでしまう場合がありえる。学びや努力を怠ると、人間の良心も誤り得るように、キリストに聴き、触れ、話すことを怠るならば、神の望みを思い違いしてしまうことがあり得る。
  わたしたちが証し、 現存させる方はキリストその方である。人々がわたしたちを見て、わたしたちと話し、わたしたちと関わるとき、わたしたちの中にキリストを感じ取れるなら、わたしたちはキリストを証していることになる。この時代、この場にキリストを現存させていることになる。 もちろん、わたしの能力、私のあり方に限定されざるをえないということはいうまでもないが・・。 今の時代の人にキリストを感じ取らせ、今の時代の人がキリストを見出し、そのキリストとの関わりから生きる力を得ることができれば、キリスト宣教者としてはこの上ない喜びである。
  わたしたちがキリストをいつも感じ取るのは、「あなたはメシア、救い主です」 という信仰宣言を毎日新たにするときである。そして信仰宣言が神のご意向に従ったものになるためには、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」というキリストの言葉を大切に神の助けによって生きていることを実感するときである。 すなわち自分に与えられる日毎の十字架をキリストと共に担うとき、人の心は純なるものとされ、謙遜になり、キリストに活き、キリストを呼吸するものとなる。

  キリスト宣教者。それは自分を誇らず、自分の力のみに頼らない人。自分の弱さを自覚し、主と共に歩もうとする人である。その日に与えられる苦しみ、悲しみ、辛さ、痛みなどを謙虚にうけとめ、主と共にそれらの十字架を、今そこで担い続けることである。そして自分の十字架のみならず、キリストに倣って、隣人の十字架に同伴する生き方は今におけるキリストの現存以外のなにものでもない。