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みことばをともに No20
みことばをともに No19
みことばをともに No18
みことばをともに No17
みことばをともに No16
みことばをともに No15
みことばをともに No14
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みことばをともに No3
みことばをともに No2
みことばをともに No1
みことばをともに_No.12

  大学生の頃、教会を通じて沢山の出会いを頂きました。全ての出会いは恵みであり信仰の糧である、ということを教わったと思います。そのような歩みの中大学4年生の夏に、ある黙想会に参加させて頂きました。その黙想を通じて出会った箇所のうち、特に心に残っているものを、ご紹介させて頂きます。
まず1つ目は、イザヤ書からの抜粋です。
  主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び あなたの手をとった。(イザヤ42.6)

  この箇所を味わっていた時、私のイメージにおいて、幼子が母に手をとって貰うような情景が浮かびました。自分自身が幼い頃の原風景がそこには投影されているのかもしれません。「心配しないで、おいで」と、母が無言の内にいつも伝えてくれたメッセージとも繋がるように思います。いずれにせよ、この箇所を読んだ時、何か安心感を得たことを覚えております。もう1つは詩編からの抜粋です。

  主よ、あなたはわたしを究めわたしを知っておられる。座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。(詩篇139.1-2) 
最初にご紹介したイザヤ書にも関連しますが、全てはみ手の中に包まれているということを、この箇所の黙想を通して強く感じました。私という人間は、小さく、また弱いものです。み旨から離れることもあります。 それでも、神はいつも私を見ておられる。そのことを感じた時、日々の思い煩いは必要のないことなのだと思いました。また、思い煩う己であっても、決して落胆してはならないとも思いました。

 このような箇所に加えて、念祷の材料として与えられたゲッセマネで苦悶されるイエスの姿を描く箇所にも心がとまりました。例えば、次の箇所です。
 それから、戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に 陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても体は弱い。」(マルコ14.37)

 

この時の念祷で特に思いを寄せたのは、イエスの孤独でした。あれほど愛された弟子達も、眠りこけてしまう。そのような状況の中たった1人で苦悶されるイエスの姿は、孤独であると思いました。このように感じたことを指導司祭に話すと、「イエスは、あなたに友になってほしいのです」とお答えになりました。この時感じたこと、そして指導司祭のお言葉を今も思い巡らしております。

  あの黙想から時が経ちました。神学院で養成を受けている今一度、これらの箇所を想い起こしますと、改めて1つ1つの箇所が意義深いものであることに気付かされます。まだまだ未熟な自分でございますが、御手にゆだね、出会いの恵みに感謝し、主とともに歩んで参りたいと思います。